第86話 研究者は空気を読まない
ぱちっ! 一瞬で弾かれる。直後に、牢の隅から影が這い出た。ぞろりと動く影は瞬く間に人の形をとる。
「陛……下?」
魔力から察したメフィストの呟きに、バラムとバールが目を見開く。触れることを拒むように、バラムの手を跳ね除けた影は間に立った。これほど遠隔で操りながら、その強さは比するものがない。驚きに目を瞠るメフィストがゆったりと膝をついた。
「姫への害意はございません。この者は解呪の専門家にて……」
風が吹けば飛んで消えそうに薄い影なのに、込められた魔力に怒りや嫉妬の感情が揺らめく。アゼリア姫への執着と愛情が、イヴリースを支配した証拠だった。
このまま手を引くのは簡単だが、それではいつまで経っても解決しない。時間が経つほど危険度が増すことはイヴリースも承知しているはず。そう訴えて待てば、影が凝ってさらに濃くなった。
失敗して怒らせたか。冷や汗をかくメフィストをよそに、その場にイヴリースが転移した。まさかアゼリアの本体から離れるなど。想像外の事態に、バールも固まる。
「余が立ち会う」
ぼそっと吐き捨てたイヴリースの瞳が、愛おしそうに細められた。アゼリアの一部を取り込んだとはいえ、なぜこの依代に心を傾けるのか。嫌な予感がした。メフィストが無礼を承知で、進み出てエルザの手を掴む。
「っ! ……うっ」
走った激痛に手を引けば、肩まで真っ赤に切り裂かれていた。使い物にならない右手をだらりと下げ、メフィストが立ち上がる。その暗赤の瞳が物騒に細められた。
「陛下は、その小娘を選ばれるのですか? 苦しむアゼリア姫を放置して……新たに移した偽者に心を囚われた、と」
指摘されて、狼狽るようにイヴリースが黒瞳を見開いた。愕然とした様子で己の手を見つめ、それからメフィストの傷ついた右手に視線を移す。何か言おうとして、己の言動に違和を感じたイヴリースは口を噤んだ。
操られたのではない。メフィストが触れた瞬間、心がアゼリアを奪われる恐怖に支配された。感情は今も続く、ずっと心に秘めたものだ。なのに、なぜ信頼する配下に対して噴き出したのか。その一点に己が暴走した時のような恐怖と高揚感が浮かんだ。
なんだ、これは。
狼狽る主君の様子をじっくり観察するメフィストは、突拍子もない考えに襲われる。もしかしたら、魔王の兄アベルのせいではないか? 彼を殺さなかった理由をイヴリースは「完全に解呪されなかった」とした。奇妙だと思いつつ、誰も異論を挟まなかったのは……それが魔王の決断だからだ。
「……メフィスト、悪かった」
不器用な謝罪と治癒を受けながら、ずくずくと突き刺すような痛みに耐える。転がり回りたい激痛だが、それをしたらイヴリースが気に病むだろう。冷徹なようで、一度懐に入れた者には甘い。そんな主君の重荷になるなら、傍に侍る権利はなかった。
「いいえ」
激痛に噛み砕いてしまいそうな歯の隙間から、かろうじて短い返事を絞り出す。そんな2人の様子におろおろする妹バールを眺め、再び魔王と側近を見つめた。
「二重の仕掛けか。実に興味深い」
人との付き合い方を覚えるまでに研究に没頭した魔術の申し子は、新たな研究対象を前に目を輝かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます