第82話 そなたを諦めておらぬ

 体が動かない。息が苦しい。触れるイヴリースの手が熱くて……きっと私が冷たいのでしょうね。


 アゼリアは夢と現の間を漂っていた。見覚えのない石造りの牢と、実家の公爵家の屋敷を行き来する。揺すられても起きているのか、眠っているのか。自分の居場所が定まらない感じがした。


「アゼリア、余の愛しい姫。すこしで良い、何か食べられぬか?」


 目を覚すのを待っていた婚約者の問いに、アゼリアは首を横に振る。何かを食べたいと思わない。飲み物も面倒くさい。抱き抱えられたまま、ふわふわと漂っていたかった。


 首を横に振って見上げる先で、イヴリースが不安そうな顔をする。何を心配しているの? そう問おうとして声が出なかった。手を持ち上げて頬に触れようとして、指先しか動かない。だが僅かな動きで何かを察したイヴリースが、私の手を取った。


 整った顔が心配に曇るのが嫌で、笑って欲しいのにと願う。彼が持ち上げた私の腕は重くて、まるで鉄の枷がついているかのよう。動かすのも辛いアゼリアの手首を細心の注意を払って持ち上げた、視界に入った手の細さに、ぞっとする。


 肌は萎びたように艶をなくし、骨と皮だけになっていた。愕然とするアゼリアは、恐怖に涙を浮かべる。瞬くことなく眦に流れ顳顬を濡らす涙を、イヴリースが優しく拭った。


 この優しい人の隣に立ち、一緒に生きていけると思った。長い年月は無理でも、命が果てるまで尽くしたいと願った。その気持ちが捩れていく。もう見捨てていい、こんな醜い私を見ないで欲しい。言葉や表情より雄弁に語る琥珀の瞳に、イヴリースは眉根を寄せてから微笑した。


「心配するでない。余はそなたを諦めておらぬ」


 外見に惚れたのではない。身体から溢れるほどの精気に満ちた、アゼリアの鮮やかさに魅了された。言葉をかわし怯まぬ態度に驚き、それから美しい人だと認識したのだ。


 衝動的に連れ帰った彼女との会話は、甘やかではなかった。殺伐とした魔族の御伽噺は、人間を信じてはならない教訓として魔国に語り継がれる。その話を聞いても安い同情をせず、淡々と受け止めた。もしあの場で「可哀想」などと口にしたら、引き裂いてやるつもりだったのに。


 公爵家という高い地位に生まれ、ちやほやと甘やかして育てられた令嬢ではなかった。自らが異端の生まれだと自覚し、そう罵られる痛みも知っている。


 ――姫じゃないわ、騎士になりたいのよ。イヴリース。


 初めて名を呼ばれた瞬間、全身を歓喜が突き抜けた。やっと見つけた半身だと確信し、彼女を己の隣に縛り付けたいと望む。可能なら、二度と分離しないよう溶かして飲み込んでしまいたい。魔族の狂気の愛情を向けられても、アゼリアは怯えなかった。


「……」


 でも、そう動いた唇が嫌な言葉を吐く気がして、口づけで塞ぐ。抱き上げた彼女の身体は驚くほど軽くなっていた。


 ユーグレース国の王太子との婚約破棄を、神や魔王に願ったと言った彼女の気持ちが理解できる。知っている強者に片っ端から願わねば叶わぬなら、余は初めて神に縋ろう。


 ――彼女だけは奪わないでくれ。

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