第83話 死ねない囚人への甘言

 あと少しで死ねるのではないか。そう期待する責めの直後、いけすかない宰相が消える。俺には聞こえないが、小さく動いた口が「陛下」と呼んだ。イヴリースが何かに気づいたか。


 回復を続ける手足が、歪な形ながら動かせるようになる。流れた血が傷口から吸収され、放り込まれた時と同じ状態まで回復させられるだろう。この地下牢は、死なせないための仕掛けが大量に施されていた。


 それは魔法陣でもあり、大量の贄を使って作られた仕掛けだった。魔族の処刑は見せしめを兼ねている。そのため地下牢に入れるのは処刑までの間、または死なせてはまずい囚人と決まっていた。


 イヴリースと呪術で繋がる限り、奴らはアベルを殺せない。その分苦痛の時間は長いが、苦しむ弟を嘲笑う時間が得られたと口元を緩めた。


 獣人と人間の娘を愛したことが、完璧だった魔王の弱点になる。冷淡に残酷に作り上げた偶像は、足元が揺らいだ。このまま引き摺り下ろしてやる。一族の誉も殺された家族の恨みも関係なかった。ただ、俺が気に食わないのだ。


 生まれた瞬間から道の中央を歩き続けた男を、這いつくばらせてやる。澄ました顔を泥に塗れさせ、愛する女を失う痛みを味わうがいいさ。呪術はもう完成間近だった。


「……なるほど、お前の仕業か」


 乱れたライオンの鬣に似た髪をそのままに、エリゴスが目を細める。突然現れた旧友の姿に、アベルは無言で返した。隠されたものを引き摺り出すことに長けた彼の、顔は硬く強張っている。幼子によく泣かれるとぼやいた過去の記憶がよぎった。


 痛む体を引きずり起こし、なんとか牢の壁に背中を預ける。視線が上がったことで、エリゴスの表情がよく見えた。苛立ちや怒りを滲ませる表情は、強面で知られる彼の豊かな感情そのものだ。真っ直ぐで裏表がない。それゆえに他者の感情を受け取る能力を授けられたことは、強烈な皮肉に思えた。


 メフィストのような男なら似合っただろう。他者の感情を読み、感じ取り、協調して流す。他の魔族にできないことを、エリゴスは容易にこなす。ここへ彼が派遣されたことで、呪術がバレたのだとアベルは確信した。


「だったら? 手足を千切るか、頭を潰すか。なんでも好きにしろ」


 じっと見つめるエリゴスは、イヴリースの配下だ。幼馴染みであり親友だった男は、魔王となった弟に仕える道を選んだ。あの時に道は分かたれたのだ。一緒に勉強した時間も遊んだ記憶も、真っ黒に塗り潰した。だからエリゴスに対する感情など残っていない。アベルはひとつ深呼吸する。


「殺して、やろうか?」


 覚悟を決めた罪人に向ける言葉ではない。エリゴスの真意を掴み損ね、アベルは目を瞬いた。乾いた血が肌に吸収されるように消え、顳顬の強張りも取れる。修復される体の変化を感じながら、アベルは痛む胸に唇を噛んだ。


 親友だと思った時期もあった。弟ではなく、自分を見てくれる友人の存在に、どれだけ救われたか。親も姉も、イヴリースのために命も捨てた。それができない自分は異端者だと嘆いたこともある。様々な感情が噴き出し、アベルは何も言えずに身を震わせた。


 ――世界はなんと残酷なのか、と。

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