第80話 薄れる影に忍び寄る闇

 人間なら影は肉体に対して発生する。だから死んだ後でも薄れたりしない。しかし魔族や獣人は違った。彼らの肉体は仮初の物、本体は魔力であり魂と呼ぶ内面にある。価値の持ちようが根本的に異なる種族なのだ。


 魔族や獣人は死が近づくと影が薄くなる。アゼリアは人間の血を引く獣人だった。獣人の血を引く人間ではない。種族は獣人であり、肉体より内面が重視された。


 つまり、彼女の寿命が何らかの理由で減ったという意味だ。


「魔王、陛下……そんな、私の娘がっ!」


 指摘された意味を理解するのは、カサンドラだけだった。獣人王家の姫だった美女は、血の気が引いたのか崩れ落ちる。


「っ、母上? 何が」


 駆け寄ったベルンハルトが、カサンドラを受け止めた。しかし腰が立たない彼女はぐったりと身を預け、頬を涙で濡らす。可愛い娘が幸せを掴んだと思ったら、目の前に死が近づいていると突きつけられた。


 代われるなら私が……そう思うのは、母親なら当然の心境だ。震えるカサンドラから事情を聞くのを諦めたベルンハルトは、抱き上げた母をソファに下ろした。青白い顔をしているが、意識ははっきりしている。


 ほっと息をついて振り返れば、眠る妹アゼリアを抱き締める魔王の震えに気付いた。強大な蛇やヒュドラを前にしても、怯む姿など見せたことがない。自信たっぷりで、傲岸不遜な物言いが似合う男が、母を見失った迷子のように肩を震わせた。


「余は許さぬ、そのような……メフィスト! すぐに参れ」


 ぶつぶつ呟いた直後、配下を呼び出す。宰相としての仕事があると魔国サフィロスへ戻った彼は、呼び出す主君の声に転移を使った。膝をついて頭を下げ、次の命令を待つ。


「アゼリアを苦しめる原因はまだわからぬか!? 影が薄れておる。急げ!」


「……影が? 失礼いたします」


 立ち上がらずに距離を詰めたメフィストが、足元に視線を落とす。釣られてベルンハルトも床を眺めた。明るい日差しは、誰の足元にも公平に影を作る。それが家具や窓の桟であっても関係なかった。アゼリアや魔王にも影がある。


「薄い? 足りない?」


 ベルンハルトが違和感に気づく。薄いと表現されれば正しいのだが、足りないと本能が囁いた。足りないのだ、何かが決定的に欠けている。


「足りない、と申したか?!」


 魔王イヴリースの剣幕に、驚きながらもベルンハルトの首が縦に動く。理由も理屈も分からないが、足りないと思ったのは事実だった。その単語を聞くなり、メフィストが眼鏡の縁を指でなぞった。


「陛下、いますこしお時間を。心当たりができました」


「早くいたせ! 間に合わねば……世界ごと滅ぼしてくれる」


「かしこまりまして」


 灰色の髪が床につくほど深く伏せたメフィストが消える。魔国に戻ったのだと思うが、ベルンハルトは得体の知れない恐怖に寒さを覚えた。それが放たれた魔力による威圧の影響だと知らず、数歩下がる。


「アゼリア……我が愛しの運命、残して行くな」


 壊れそうな声と呟きをこぼした魔王の顔は、長い黒髪に隠れて見えなかった。

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