第73話 帰るべき場所
アゼリアの上にのしかかり、その首を絞める男――見た瞬間に脳が煮え滾る気がした。感情が一瞬で沸点を迎え、考えることを放棄する。
涙が滲んだ眦、濡れた顳顬、薄く開いた赤い唇と助けを求める動き……すべてが怒りと嫉妬に油を注いだ。燃え上がる感情は目の前を赤く染め、やがて黒く塗り替えられる。
彼女は余のものだ。誰も触れず、声を聞かず、その姿を見なくてよい。この魔王イヴリース以外が肌に触れることは、許さぬ。
影となった手足がじわりと実体を持つ。煙のように魔力に溶けた身体が凝った。彼女に触れた手足は必要ないゆえ、粉々に砕いて千切ってやろう。二度とアゼリアに触れないように……苦しむ彼女の顔を見た目を抉ってやる。話しかけたであろう喉も潰し、皮膚の奥まで毒を染み渡らせて腐らせれば、もう何も出来まい?
にたりと闇は笑い、黒い影は人の形を取り始めた。苦痛の声すら上げさせてもらえない男が転げ落ち、地面をのたうち回る。せき込んだアゼリアが身を起こし、目を大きく見開いた。苦しさから滲んだ涙が頬を流れていく。
己の姿を嘲笑いながら近づいた。泣き叫べばいい、化け物だと罵れ。そうしたら、お前が外の世界に出られないよう隔絶した闇で、その命が果てるまで愛してやろう。二度と誰にも傷つけられない場所で、余が刻む傷を癒しながら生きれば良い。
「……イヴ、リース……なの? 助けに、きて、くれた?」
痛めた喉が震え、彼女は闇に手を伸ばした。咄嗟に凝らせた腕で受け止める。アゼリアの小麦色に焼けた肌が触れ、指先がなぞる場所から形が固定された。
黒い姿にしがみついて肩を震わせる彼女を抱き寄せ、イヴリースは驚いた。獣人としての血が流れていても、人間として育ったアゼリアの常識は人の枠から出られない。そう考えてきた。だから彼女に第二形態以上を見せたくなかったのだ。常識から外れる生き物を、人間は拒絶する――しかし。
「アゼリアは、余が……怖くないのか」
疑問ではなく確認の響きに、抱きついたままアゼリアは首をかしげた。不思議そうに目を合わせて、涙に濡れた頬を緩める。
「だって、イヴリースだわ」
他の誰でもない。自分が愛した男だと言い切り、アゼリアは穏やかになった鼓動を重ねた。苦しい時も怖い時も名を呼んだら助けてくれる。少し怖くて、それ以上に優しくて、どこまでも私を愛してくれる――間違うはずがなかった。
足元に崩れ落ちた男の残骸がもそりと動く。それを地下牢へ転送した。許す気はなく、逃す慈悲もない。
「……ありがとう」
形すら失っても、アゼリアは見つけてくれる。手を伸ばして固定してくれた。その深い愛情を得る立場にある幸運を噛み締め、誰よりまっすぐな女性の腰を抱く。そのために手足も肩も首もすべてが元の形を取り戻した。
「私こそ」
助けてもらった。そう告げるアゼリアへ首を横に振り、イヴリースは第二形態まで落ち着いた己の手で彼女を抱き上げる。首に手を回して抱きつくアゼリアの頬に残る涙を唇で拭い、傷になった首や肌を魔力で癒した。
「愛しのアゼリア、さあ帰ろう」
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