第72話 まるで祈りのように
ゆっくり目を開く。飛び込んできた景色に見覚えがなく、溜め息をついて目を伏せた。もう一度静かに開いた瞳に映るのは、知らない青年だった。
「あな、た……だれ?」
顔が近づいて、緑の瞳にぞっとした。イヴリースやメフィストと同じ獣の瞳だ。なのにどうしてか、恐怖と嫌悪が込み上げた。口元を手で覆って、う゛っと嘔吐く。アゼリアの仕草が予想外だったのか、驚いた青年は顔を離して瞬いた。
「イヴ、リ……ス!」
「その名を呼ぶな、忌まわしい」
低く叱り付けるような声に、びくりと肩を震わせたアゼリアは、心の中で必死に叫ぶ。愛しい人の名を……最愛の男の名を。まるで自分を救う祈りのように、ひたすらに繰り返した。
助けて、イヴリース。
ここは知らない。この男も知らない。怖い、どうしよう。
震えながら見回した先は森だ。深い緑が包む大木に寄りかかる彼女の上にのしかかった男は、まだ若かった。イヴリースと同じくらいか。魔族の外見は実年齢と合わないと知っていたが、そう感じる。どこかイヴリースに似た雰囲気を持つのに、全く別の生き物だと心が拒否していた。
記憶が途切れたのは、イヴリースの腕の中だった。何か不快な怖い感情が押し寄せて、衝撃波に心が砕けそうになる。あの痛みのまま意識を手放したのね。なぜ知らない男が目の前にいるのかわからないが、彼はイヴリースを嫌っている。
震えながら唇を噛み締めた。睨み付ける黄金の瞳を、眩しそうに見つめ返した男は笑った。小動物を嬲る猫のように、残忍な色が浮かぶ。この男を見て嫌悪感を覚えた理由は、本能の警告だったのか。震えながらも、アゼリアは目を逸らせなかった。
「ねえ、君をぼろぼろにしたら……あの男は悲しむ? それとも別の女を見つけるのかな? 試してみようぜ」
何を言われたのか理解できず、アゼリアは眉を寄せる。近づく顔を両手で押し返し、足で男の脛を蹴飛ばした。身を翻して逃げようとした足首を掴まれ、背中から地面に叩きつけられた。
はっ、短い息が出て呼吸が詰まる。肺から一気に吐き出した空気が欲しくて、必死に吸い込もうとするのに肺は潰れて苦しい。死んでしまう……はくはくと動く唇が青ざめた。
「ん? 面倒くさいな。勝手に死なないでくれ」
舌打ちして腹部に衝撃が与えられた。蹴飛ばすという乱暴な手法だが、何とか呼吸が再開する。吸い込んだ空気が肺を満たし、荒い呼吸を整えた。
人間じゃない。こいつ、何なの? 混乱したアゼリアが自身を抱き締めて丸くなろうとする。己を守る本能的な行動だった。その腕を掴んで開かせようとする乱暴な手が、ぐいっと肌に食い込んで痣を作る。
「いやっ、触らないで! 私は
あんたなんかに触らせるものですか!
「その名を口にするなって言っただろ! もう一度呼んだら殺すぞっ」
首に絡んだ指が食い込み、アゼリアは苦しさに涙を滲ませる。それでも唇は彼の名を呼んだ。たとえ殺されても、私はあの人を信じるし、待つの。迷いのない蜂蜜色の瞳が潤んで、ゆっくり閉じられた。
その瞬間――上で首を締める男が吹き飛ばされる。圧倒的な力で締め上げ、骨を軋ませ肉を断ちながら、黒い影は威嚇の響きに喉を震わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます