第71話 魔王の逆鱗を剥がす愚行

 アゼリアのいる屋敷の裏へ飛んだ。人間の目を避けて降り立った庭は、見るも無残な状態だった。


「……何が?」


 結界は破られていない。屋敷の周囲に張り巡らした結界は今も機能しており、この場を荒らす者を通過させた形跡はなかった。


 足早に歩きながら、最愛の名を呼ぶ。


「アゼリア! アゼリア、返事をしてくれ」


 美しかった芝の庭は穴だらけ、木陰を作る大木は折れて息絶え、花びらは散って無残に踏みにじられていた。庭と呼ぶより、戦場の跡地のようだ。


「くっ……魔王、か?」


 剣を杖代わりに立ち上がったアウグストが、ふらりと膝から崩れる。隣に倒れているのは、妻のカサンドラだ。義理の父母となる彼らに何があったのか。カサンドラに預けたアゼリアはどうなった?


「っ! アウグスト殿、何が」


「魔族だ、襲って……はや、く、アゼリアっ」


 拐われたと声にならない叫びを口の動きで読んだ瞬間、世界が音を無くす。色が消え、何もかもが遠くなった。その絶望は一瞬で心を貫き、直後に黒い感情が浮かぶ。


「失礼する」


 番であるアゼリアを追うため、追跡用の魔法陣を地面に描く。先ほどまで領地全体を覆う結界を展開したため、魔力が足りない。第二形態では補えない魔力を絞り出すイヴリースの輪郭が揺らぎ、漆黒の獣が現れた。第三形態だが、それでも追跡に届かない。


「メフィスト、手を貸せ」


 命じた途端、第三形態のメフィストは空間を歪めた。主君イヴリースの元へ転移し、彼の姿に驚く。足りない魔力を補うため、再び輪郭がぼやけ始めた。


 周囲の空気が巻き込まれて、重く暗く染まっていく。結界内の人間を守る盾となる位置に立ち、灰色の狼は己の尻尾を咥え、1本を引き千切った。激痛に呻くが、血と尻尾を魔法陣に捧げる。


「後を任せる。蹂躙させるな」


「我が命に変えましても」


 安心して行ってらっしゃいませ。そう告げたメフィストが、揺らいで第二形態に戻る。魔力量の証明である尻尾を千切ったメフィストは、もう第三形態を維持できなかった。山羊の角がついた頭を下げた側近に見送られ、イヴリースの影は魔法陣に吸い込まれる。


「今のは……」


 傷だらけで戦ったアウグストに歩み寄る。メフィストは怠い身体を叱咤しながら、後始末の手配を始めた。立ち上がれないアウグストと、倒れたままのカサンドラに手をかざした。治癒はさほど得意ではないが、応急処置くらいになるだろう。


 全魔力の2割を失った手足は泥のように重い。それでも主君に頼られ、役に立てた充実感がそれを凌駕した。


「陛下の第五形態です。歴代魔王の中で、第四形態以上を持つのは初代を含めて2人目……アゼリア姫は無事にお帰りになるでしょう」


 あれほどの実力者の逆鱗を剥いだのだ。犯人が許されるはずはない。誰より残酷で強い魔王を本気で怒らせた愚か者を、魔王の側近は嘲笑した。


 複数のゴエティアを召喚し、この地の警護と負傷者の救助を申し付ける。第二形態までの解放とし、人間を脅かさないよう配慮した。


「ベルンハルト殿は?」


「……あちらだ」


 動ける程度に回復したアウグストが示したのは、領民を保護した屋敷の方角だった。カサンドラが身を起こし、震える声で娘の名を呼ぶ。


「アゼリア、あなた……あの子は」


「ご心配なく。魔王陛下が向かわれました」


 メフィストの言葉に安堵したのか、カサンドラは再び夫の腕に倒れ込む。傷だらけの夫婦の姿に、連れ去られる娘を守ろうとした親の誇りが窺え……気怠げなメフィストは頬を緩めた。

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