第74話 消えた奴隷は誰も知らない

 奴隷商に捕まって、地下室に閉じ込められた。泣き疲れて眠ったところを運ばれたのだろう。知らない場所にいた。


 個室だろうか。薄暗い部屋にはベッドのみ、他の家具は一切なかった。窓はあるが格子がついている。押したら開かないかしら、そう考えたエルザはドアに手を掛けた。鍵が掛かっているのか、ノブは回らない。


 仕方なくベッドの上に腰掛けた。スプリングは良くない。寝転がる気になれず、座ったまま格子付きの窓を眺めた。外の様子は見えない。立ち上がって見下ろさないと、景色は空だけだった。


 ノックの音がしてエルザは振り返る。そこに立つユルゲンの執事は、無表情だった。感情を一切見せない男に恐怖を感じて、ベッドの向こう側へ逃げる。壁に張り付いて様子を伺うエルザを気にせず、執事は一歩下がって客を招き入れた。


 部屋の中の少女をじっくりと見定めた客は、にやりと笑った。でっぷり太った腹を揺すり、満足げに執事へ告げる。


「なるほど、若い女だ。本当に初物か?」


「医者の診断を経ております」


 淡々と奴隷の説明をする執事が、1枚のメモを見せた。金額が示されたその紙に、客は渡されたペンでサインする。これで売買契約は成立した。一礼して下がろうとした執事へ、エルザが叫んだ。


「何なの! この部屋から出してよ」


 怖いもの知らずのエルザへ、客は「元気で結構」と大きく頷いた。震えて怯える女より、強気な女を手懐けるのが好きな悪癖持ちは、配送の手配を終えると部屋をでた。


「いつも良い品を揃えていただき、感謝している。ユルゲン殿によろしくお伝えくだされ」


「伝言、お預かりいたします」


 売買されたエルザに同情心はない。この客は多少性癖に問題はあるが、購入した奴隷をきちんと扱う。彼女も望んだ形ではないにしろ、衣食住に困る心配はなかった。


 体と若さ以外何ら取り柄のない少女の売却先として、これ以上ない良縁だ。客を見送ったあと、執事は普段通りに配送の手配をした。


 その日の夜、眠らせたエルザが運び出され……聖女になり損ねた少女は、奴隷商ユルゲンの手を離れた。






「助けてやろうか?」


 配送中の馬車を襲った魔族は、美しい顔で尋ねる。長身ですらりとした青年に、エルザはうっとりした顔で頷いた。運が向いてきたわ。今度こそ贅沢させてくれる見た目のいい男を捕まえた!


 考えの足りないエルザは、失敗に懲りる気はなかった。美しい青年の手を取り、微笑む。エルザを連れた魔族は、影の中に姿を消した。


 残されたのは……惨殺された御者や馬の死体。壊された馬車は赤く汚れていた。森を抜ける前に襲われた馬車の話が、誰かの口の端に乗ることはない。その直後に起きた、ヒュドラの襲撃によって被害は闇の中に消えたのだ。


 まるで馬車の通過を待って、騒ぎを起こしたかのように。馬車の消失点とヒュドラの発生点は、ぴたりと重なった。

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