第2話 レンズの向こう側に

「どうですか?1日、お付き合いいただけますかな?ちゃんとお礼を用意しますよ」

 横山は、細い目の目じりを上げながら、両手をこすりながら夕夏に尋ねてきた。


「じゃあ、どの位用意して頂けるんですか?」


 夕夏は、こみ上げる怒りを抑えながら横山の言う「お礼」の程度を確かめようとした。


「そうですな。これでどうでしょ?これが精一杯ですな」


 横山は、指でピースサインをし、二本の指を夕夏の前に差し出した。


「え?に、二万円も?」

「いや、二千円ですけどね」

「二千円?丸一日、貴重な休日を費やして、二千円?」


 夕夏は、抑えていた怒りが爆発しそうになった。

 二千円あればギリギリ行き帰りの交通代にはなるが、望んでもいないモデルになるため、1日潰されることに対する代償としては安く感じた。


「すみません。こう見えても僕は貧乏なのでね。これが精いっぱいですね」

「じゃあ結構です。もっといいモデルさん、探してくださいね」


 夕夏はバッグを背負うと、足早に稲村ヶ崎公園から立ち去ろうとした。


「わ、わかりました!じゃあ、お礼に食事も付けましょう!北鎌倉の去来庵のビーフシチューをごちそうしますが、いかがですか?」

「え?きょ、去来庵…!」


 横山の言葉を聞き、夕夏の足がピタリと止まった。

 去来庵は、北鎌倉にあるビーフシチューの名店であり、夕夏も昔、友人と食べに行ったことがあった。

 とろけるような肉と野菜、そして濃厚なシチューソースをご飯にかけて食べるとたまらなく美味しかった記憶があった。

 ただ、なかなか高額なのと、人気店ゆえにいつも満員で、なかなか食べる機会がなかった。


「本当に?あそこ、人気店でいつも入るのに待たされるのよ。それにお値段もなかなかだし」

「たぶん入れますよ。私が行くときはいつもスムーズに入れますから」

「え!?マジで?どうして?」

「さあ、理由は良く分かりませんが…とにかく、今日一日、お付き合いしていただけますよね?」


 夕夏は少し考えたが、「お礼」として頂く二千円だけでなく、あの去来庵でシチューをご馳走してもらえるのならば…という淡い期待が、ためらう気持ちを後押しした。


「いいわよ。ちゃんと夕方までには終わるんですよね?そして、去来庵も行っていただけるんですよね?」


 すると、横山は満面の笑みを浮かべた。

「いいですよ。じゃ、お受けいただけるということで。ありがとうございます。早速場所を移動しましょうか?」


 そういうと、横山は夕夏を手招きした。

 公園の駐車場に停まっている、一台の小さなバイクにたどり着くと、横山はヘルメットを1つ、夕夏に手渡した。


「え?これって、出前や新聞配達とかで使うバイクでしょ?2人乗りできるの?」

「ええ、スーパーカブっていう小型バイクでしてね。2人乗りできるよう改造したんですよ」


 そういうと、横山は親指を立てて笑い、エンジンをふかし始めた。


「さ、行きましょう!しっかりと僕の背中につかまって下さいね!」

「え?いきなり、見ず知らずの人の背中につかまれって言われても……」

「だ、大丈夫!信じて下さい。変なことはしませんから。ただ、お姉さんには無事でいてほしいだけですから」


 夕夏は横山の心遣いが嬉しかったものの、「お姉さん」と気安く言われたことにはちょっと心理的に抵抗を感じていた。


「あの…私、お姉さんじゃありません。夕夏って名前があるんですっ!」

「夕夏さん?あ、そうだ、名前聞くの忘れてました。じゃあ夕夏さん、しっかりつかまって!」


 横山は苦笑いしながら国道134号線にカブを出すと、車顔負けのスピードで走りだした。

 真正面には江ノ島、すぐ左には相模湾、そして右には江ノ電。

 映画やドラマのワンシーンのような光景が、夕夏の目の前に広がっていた。

 国道134号線はいつもの週末のように渋滞していたが、横山の運転するカブはそんなことはお構いなく、立ち止まる車の左脇をどんどんすり抜けて行った。


「す、すごい!こんな爽快感、初めて味わったかも」

「そうでしょ?鎌倉では、こんな不格好なカブで走るのが実は快適で気持ちいいんですよ」


 鎌倉の海岸沿いを旅する時、江ノ電しか乗ったことのない夕夏にとって、その光景は新鮮であり、今まで味わったことのない爽快感と興奮を感じた。


「あそこにある駅で撮影しますね」


 横山は、江ノ電の「鎌倉高校前駅」の前でカブを止めた。

 すぐ目の前に海が見えるこの駅は、漫画の舞台になったことから国内外からファンが集まり、駅のすぐ隣の踏切は、スマートフォンで撮影する人達の姿を多く見かけた。


「ここじゃ人影が多くて邪魔になりますんで、駅に入りましょう」


 横山は二人分の切符を買い込むと、夕夏を手招きした。

 夕夏は横山の後を追って駅舎に入ると、ホームの上に立った。

 ここまで来ると、踏切付近に比べると撮影に興じる人の姿は少なかった。

 すぐ目の前に国道、そしてどこまでも広がる海、右側には江ノ島の姿があった。


「じゃあ、そこの鉄柱によりかかるような姿勢で、海を眺めてください」


 夕夏は、言われたままに、「鎌倉高校前」のサインが貼られた鉄柱に寄りかかった。

 横山は、夕夏の横顔にレンズを向けた。その表情には、笑みがなくどことなく物憂げだった。

 夕夏は昔から友達に写真を撮られた時も、あまり笑うことがなかった。

 何故かはわからないが、レンズを向けられると、それまで笑顔でもとたんに表情が硬くなってしまう。

 しかし横山は、そんな夕夏に対し、敢えて「笑って」と指示せず、物憂げな表情のまま、シャッターを切っていた。

 その時、藤沢方面から江ノ電が駅に入線してきた。


「よし!シャッターチャンスだ。電車を背にして、僕のレンズを見つめて下さい」


 夕夏が横山のレンズを見つめると、横山は次々とシャッターを切った。

 横山は撮影したデータを確認すると、夕夏にもそっと見せてくれた。

 物憂げな顔でレンズを見つめる夕夏のすぐ後ろに、江ノ電の先頭部分が顔を出していた。


「わあ!すごくいい構図ね。何だか映画のワンシーンみたい」

「さ、出発しましょう!今度は逆方向に行きますね」


 そういうと、横山は再びヘルメットを夕夏に手渡した。

 横山はカブのエンジンをかけると、踏切に群がる観光客を尻目に、そして相も変わらず渋滞してノロノロ走行を続ける車を次々と抜き去っていった。

 やがて横山の運転するカブは国道134号線を離れ、稲村ケ崎駅から住宅街をすり抜け、江ノ電沿いの細い坂道を登り、極楽寺の切通しを過ぎると、成就院へと続く階段の手前で止まった。


「さ、ここでもう1枚撮りますね」


 成就院から長谷に下る坂道沿いには紫陽花が植えられており、花が一斉に咲き揃う季節になると、この坂を多くの観光客やカメラマンが往来していたが、近年花が全て剪定されて株だけの状態になってからは、坂を往来する人もまばらとなった。

 しかし、坂の下に広がる鎌倉の街並みや由比ガ浜は、太陽に照らされまばやく輝いて見えた。

 横山は、坂の上から、そして山門をくぐった坂の真下から、剪定後の小さな花を咲かせる紫陽花を愛でる夕夏の姿を写真に収めた。

 撮影後、横山は満足した表情を浮かべながら夕夏に写真のデータを見せた。


「どう、良い出来でしょ?夕夏さん、やっぱりあなたはモデルとして最高ですよ」

「あ、あはは、最高のモデル、ねえ……」

「騙されたと思わないで、自信を持ってくださいね。アマチュアと言えど、一応カメラマンの僕が言うんだから」

「というか、そろそろ疲れてきたんですけど……去来庵にはまだ行かないんですか?」

「あともう少しお付き合いください。あ、そうそう、すぐそこで小休止しましょう!美味しいお菓子のお店があるんですよ~」


 相も変わらず人の意見に耳を貸さず、マイペースな横山の行動に呆れかえった夕夏であるが、不思議と怒る気持ちにはなれなかった。

 横山は、夕夏が知らなかった鎌倉の風景を見せてくれた。

 観光客でごった返す鎌倉をカブで突っ走る爽快感を味わせてくれた。

 そして横山が撮影した写真は、鎌倉の風光明媚な風景の中に見事なまでに一体化している夕夏の姿があった。

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