第3話 約束の場所へ
横山の運転するカブは、極楽寺坂を下り、小さな菓子屋の前で停まった。
大きな看板と、「力餅家」と大きく書かれた右側から記した暖簾、古い佇まいの
建物が、店の歴史を感じさせた。
「ここの『力餅』が美味しいんです。待っててくださいね」
横山はヘルメットを脱ぐと、夕夏を後部席に残したまま店の中に入っていった。
店内には何人もの客が並んでいたが、それほど待たずに買い物している様子だった。
やがて横山は、小さな紙袋を持っていそいそと戻ってきた。
「『力餅』です、1つどうぞ」
そういうと、小さな紙包みに入った菓子を夕夏に手渡した。
夕夏が包みをそっと剥すと、中には漉し餡に包まれた丸い餅が姿を現した。
「美味しいですよ。僕は小さい頃からこの力餅が好きでしてね。今も思い出したように買いに行くんですよ」
横山は笑いながら、力餅を美味しそうに頬張っていた。
夕夏は、しばらく餅を見つめていたが、餡をそっと口に含むと、漉し餡のまろやかな口当たりが心地よく、優しい香りが口中に広がった。
中に入っている求肥も、ほどよい甘さで食べやすかった。
「うわあ、美味しい……!」
「でしょ?最近は鎌倉でもお菓子屋さんが増えたけど、僕は昔から変わらずこの『力餅』が好きなんだよなあ」
力餅を食べきった横山は、残りの餅が入っている箱を夕夏に手渡した。
「え?い、いいのかしらこんなに?横山さんこのお餅大好きなんでしょ?持ち帰って、お家で食べたら?」
「いや、いいんです。僕はいつでも買いに行けるし」
そういうと、横山は親指を立て、ヘルメットを被るや否やエンジンをふかし始めた。
「ちょ、ちょっと!もお、少しは私の話を聞いてよっ!」
カブは風を切って長谷の町並みを一気に通り抜け、海岸沿いの開放的な雰囲気が漂う由比ガ浜へと出た。
大きなサーフボードを抱えた若者たちが談笑しながら行き交う姿を見ながら、カブは鎌倉のメインストリート・若宮大路へと左折していった。
歩道を埋め尽くし、ゆっくりと歩く観光客の群れを横目に、カブは鶴岡八幡宮方面に向けてひたすら快適に走行を続けていた。
「すごい!若宮大路なんて、歩いていると果てしなく続く長い道っていうイメージだったけど。カブがこんな快適で気持ちいい乗り物だったなんて」
「でしょ?でも、カブに乗ってたらご覧の通り、スイスイですから」
やがて、大勢の人達が信号待ちをしている鶴岡八幡宮の信号を左折し、横須賀線のガードレールをくぐると、すぐそこには寿福寺の入口があった。
夕夏はかつて学生時代に、友人と一緒に鎌倉駅から北鎌倉駅まで歩いたことがあったので、この辺りの地理は良く分かっていた。
ここから亀ヶ谷の切通しを通れば、北鎌倉へと出ることが出来る。
横山と約束した「去来庵」も、北鎌倉駅に向かう途中に所在する。
いよいよこのミッションも終わりかな?と胸を撫でおろしていた夕夏であったが、カブは亀ヶ谷へと右折せず、そのまま住宅街の中を突き進んだ。
「あれ?どこに行くの?この道はこの先行き止まりじゃない?北鎌倉に行くにはさっきの曲がり角で曲がればいいのよ!」
「わかってますよ」
横山からは、たった一言、そっけない返事が戻ってきた。
一体どこに行くつもりなのか?夕夏は不安が募ったが、やがて道路は行き止まりとなり、その突き当りには様々な花が咲き誇る庭園と、小さな寺院が姿を現した。
「海蔵寺に着きました。ここは『花の寺』と言われてて、とにかく庭園が綺麗なんですよ。早速写真を撮りましょう」
そういうと、横山は夕夏を手招きし、先導しながら参道を進んだ。
山門をくぐると、大きな屏風が置かれ、西洋風のおしゃれなシャンデリアが付いた本堂が見えてきた。
観光客は誰もおらず、横山と夕夏しか参拝客が居ない様子だった。
「あれ?ひょっとしたら…このお寺にいるのは、私たちだけ?」
「そうみたいですね。さ、撮りましょうか」
「え?ここで?お寺と庭園以外、何もないじゃん……」
「はい、ここで、です」
「つまんないの。ずっとここまで撮影にお付き合いして、ちょっと疲れてきたから、ここで少し休もうかな」
そういうと、本堂の縁側にちょこんと腰かけた夕夏に、横山はそっとカメラを向けた。
何もない静寂……聞こえてくるのは、鳥のさえずりだけ。
夕夏は、目を閉じてその声をじっと聴き入った。
横山は、シャッターの音で夕夏の気持ちが切れないように、少し距離を取ってからシャッターを切った。
撮ったデータを確認すると、笑みを浮かべて納得の表情を浮かべた横山は、夕夏の目の前に出ると、指でそっとOKのサインを作った。
「え?今、撮ったの?ポーズも何も取ってないのに」
「はい。今の夕夏さんは、ポーズなんか取らなくても十分に絵になってましたので。さあ。残るは1か所だけです。ここが終われば、お待ちかねの『去来庵』ですよ」
「お、やったあ、あと一か所!そう言われると、もうひと踏ん張りできるかな?」
横山の運転するカブは、さきほど来た道を戻り、『亀ヶ谷切通し』の表示がある方向へと左折すると、狭い急坂をゆっくりと登り始めた。
亀ヶ谷切通しは普通車以上の大きい車は通行できないが、カブは通行可能である。
鬱蒼とした木々に覆われ昼間でも夕方のように薄暗い中を、石畳の急峻な坂道がどこまでも続く。
以前夕夏が徒歩でここを通過した時は、汗を拭い、足をかばいながらこの道を通り過ぎた記憶があった。
しかし、カブではそんな心配はほとんど無用であった。
「こんな急坂なのに、スイスイ登ってくね。私、死にそうな思いをしながら、ここのアップダウンを歩いたのに……」
「カブに乗れば、坂の多い鎌倉は余裕ですよ。おまけに空気の悪い一般道でなく、緑いっぱいの空気の美味しい所を走るから、気分がリフレッシュしますし」
「いいなあ。私、買おうかな?カブ」
「鎌倉に住むなら、おすすめかな」
やがて、鎌倉街道へと出ると、多くの車がまるで数珠繋ぎのようにどこまでも繋がっていた。
しばらくすると、道路右手に「去来庵」の建物が見えてきたが、カブはそのまま止まることなく、直進していった。
「あれ?去来庵、通り過ぎちゃうんですかぁ?」
「だから!あと1か所撮影しますって、言ったでしょ?」
「それって、どこなの?私、そろそろお腹ペコペコなんですけどぉ」
「いいから、もうちょっとの辛抱です!そろそろ次の撮影場所に着きますからね」
カブは横須賀線の踏切を越え、線路左側の道路を進んだ。
やがて、鬱蒼とした木々に囲まれ、神秘的な雰囲気の場所でタイヤが止まった。
「東慶寺に着きました。ここで最後の撮影をします」
木々に囲まれひんやりとした空気の漂う中、二人はカブを降りて道を進むと、山門へと続く階段にたどり着いた。
階段沿いには、色とりどりの紫陽花たちが、可愛らしい顔を見せていた。
「じゃあ、そこの階段で紫陽花を見てる姿勢でお願いします」
夕夏は、紫陽花の花びらを一つ一つ、ゆっくり愛でるように触り始めた。
ブルー、ピンク、紫……艶やかな色をした紫陽花を眺める夕夏の表情をしっかり収めようと、横山は階段の真下から何度もシャッターを切った。
その表情は、いつものようにどこか物憂げだった。
しかし、横山は、これまでのようにその表情を無理に変えようとせず、ありのままの夕夏の素顔を撮影した。
「よし、これで無事撮影は終わりました!おつかれさまでした」
「わあ!やった!さあ、これで去来庵に行ける~!」
「僕の財布にはちょっと痛い出費ですけど、約束ですからね…じゃ、行きましょうか、去来庵に」
夕夏の憂い顔はいつの間にやら、開放的な笑顔に変わっていた。
撮影中に見せていた不安な表情はどこにもなく、すっかり元気になり、上機嫌なようで鼻歌まで歌い始めた。
カブは先ほど来た道を逆走し、やがて、「去来庵」の看板の手前で停車した。
ついに、「約束」のビーフシチューが食べられる……夕夏が紅潮した顔でカブを降りた一方で、横山の方は、どことなく物寂しげな表情を浮かべているように見えた。
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