こんな旅のはなし

Youlife

第1章 鎌倉~思い出のフォトブック~

第1話 初夏の鎌倉へ

 6月も中旬を過ぎた週末。

「江ノ電」の名前で親しまれるローカル単線・江ノ島電鉄の鎌倉駅のホームには、朝早くから溢れんばかりの人達が電車待ちをしていた。

 東京都内に住むOL・原田夕夏はらだゆうかもその1人であった。

 梅雨の晴れ間、朝から太陽が照り付け、湿気で額から次々としたたり落ちてくる汗をハンカチで何度も拭いながら、大勢の人達とともに電車が来るのを待ち続けていた。


 やがて、小さな二両編成のグリーンの可愛らしい電車が入線してきた。

 沢山の乗客が吐き出されるのと入れ替えに、プラットフォームで待っていた人達が続々と二両編成の電車に吸い込まれていった。

 電車内はあっという間に、足の踏み場もないほどの大混雑になった。

 地元の人達も辟易するこの光景は、6月の鎌倉の「風物詩」であった。

 窓の外の風景を見たくても、他の乗客の頭しか見えず、しばらく息苦しさを感じた。

 電車が「長谷駅」に到着すると、乗客の半分以上がここで下車していった。

 おそらく彼らの目的は、紫陽花が咲き誇る長谷寺や光則寺、大仏の鎮座する高徳院であろう。

 しかし、夕夏はここで下車せず、ようやく空いた座席に腰かけると、半分背中を向けて窓の外の風景を見遣った。

 電車は古いレンガ造りのトンネルを抜け、極楽寺駅を通り過ぎると、次第に山沿いに広がる住宅地の中を縫うように進んでいった。

 電車が「稲村ケ崎いなむらがさき駅」に着くと、ここでようやく夕夏は座席から立ち上がり、江ノ電を下車した。


 駅からは、住宅地の中の平坦な道を歩いた。

 高い建物が無く、どこまでも真っ青な空が広がり、まぶしいほどの太陽の光が真上から降り注いでいた。

 夕夏は日傘をさすと、浜辺の町をゆっくりと歩いた。時折夕夏の長い髪に吹きつけてくる風は、東京とは違い、強烈なほどの潮の香りを含んでいた。

 ゆるやかな坂道を下ると、国道134号線を横切る信号に出くわした。

 国道には、上下線ともに途切れることなく沢山の車が行き交っていた。

 国道のその向こうには、見渡す限りの真っ青な海原が広がっていた。


「わあ……気持ちいい!」


 夕夏は、花柄の長いスカートを揺らしながらゆっくりと海沿いの歩道を歩いた。

 朝から暑く、波もおだやかなこの日は、サーファーたちが波間に多く浮かんでいた。


 やがて夕夏は、緑が生い茂る稲村ヶ崎公園に到着した。

 ここは真正面に江ノ島を見渡すことができる、風光明媚な場所である。


 散策路をゆっくりと歩むと、茂みから色とりどりの紫陽花が顔を出していた。

 休憩所の東屋に到着すると、夕夏は日傘を閉じ、ベンチに腰掛けて、籐編みのバッグから飲みかけのペットボトルを取り出し、ゆっくりと口にした。

 ここまでひたすら歩いてきたせいか、額にはたくさんの汗が光っていた。

 額の汗を拭うと、大きく息を吸い、お腹の底から少しずつ息を吐いた。

 深呼吸すると、潮の香りが夕夏の体中を包み込んだ。

 茂みの向こうには、太陽に照らされて金色に光る相模湾がどこまでも広がっていた。


 この場所は、夕夏にとってこの世で一番のお気に入りの場所である。


 仕事で嫌な思いをした時、付き合っていた彼氏と別れた時、友達と喧嘩した時、家族とギクシャクした時、夕夏はこの場所まで1人電車を乗り継いできた。

 都会の風景は日々目まぐるしく変わりゆく中、稲村ケ崎から望むこの風景は、ずっと変わらなかった。


 お気に入りの風景を見ながら独り幸せな気分に浸っていたその時、背後から誰かの足音がゆっくりと近づいてきた。

 夕夏が振り返ると、1人の男性が、カメラを抱えてゆっくりと夕夏に近づいてきた。

 ロマンスグレーの髪をオールバックにして後ろで小さく結び、紺地のアロハシャツを着こみ、目が細く、髭を生やし、小柄で猫背気味のその男性……見た目、60代ぐらいであろうか?

 どことなく不審な雰囲気が漂っていたせいもあってか、夕夏はベンチから立ち上がると、ペットボトルをバッグに仕舞い、何も言わずにそそくさと山道を下りようとした。

 その時、男性は夕夏の後ろを付きまとうかのように歩き始めた。

 夕夏は山道をひたすら下り、国道へとつながる階段状の広場へと出ると、さすがにここまでは追いかけて来ないだろうと思い、後ろをそっと振り向くと、カメラを抱えた男性がにこやかな顔で夕夏のすぐ後ろに立っていた。


「な、何ですか!?さっきから!」


 夕夏は、威嚇するかのような口調で男性に問いかけた。


「あ、気づきました?」


 男性は髪をかきむしりながら、甲高い声で夕夏に笑いかけた。


「気づきましたって?とっくに気づいてますよ!いったい何をしたいんですか?私の後ろを付きまとわないでください!警察に通報しますよ!」


「あはは、確かに誤解されちゃいますよね。ごめんなさい」


 そういうと、男性はポケットから名刺を取り出すと、夕夏に手渡した。


横山眞一郎よこやましんいちろうといいます。一応、この鎌倉で、アマチュアのカメラマンをしてるんですが」


 横山と名乗る男性の名刺の裏には、これまで写真が掲載された雑誌の名前や、所属している写真家協会の名称が入っていた。


「ふーん、地元のカメラマンさんなのね。で、この私に一体、何の用?」

「あなたを撮影したくて」

「え?わ、私を?」

「そうです。あなたですよ。私ね、今、鎌倉を舞台にした写真集を作っていましてね。特に、鎌倉の風景に見合う女性の写真を撮っているんですよ」

「私が鎌倉の風景と見合う?あの……私、この町の人間じゃないんですけど」

「いや、鎌倉の人間じゃなくてもいいんです。『この風景に見合う』人間を撮りたいんです。この稲村ケ崎の風景とあなたは、とてもマッチしている。だから、何としてもここであなたを撮りたいと思って。失礼ながら、公園に入ってからずっとあなたの後ろを付けてきました」

「ず、ずっと?マジで?」

「そうです。マジですよ」


 横山は、当然だろうと言わんばかりの表情で、夕夏に微笑んだ。


「けど、私もう30歳越えてますし、被写体としては物足りないのでは?もっと若い子を見つけて撮影した方が、絵になると思いますけど?」

「いやいや、年齢は関係ないですね。私の基準は『絵になるかどうか』です。さ、お時間は取らせません。少しだけでいいので、撮影にご協力いただけませんか?」

「え?ちょ、ちょっと!」

「そこの手すりにもたれかかって下さい。そして、じっと海を見つめている姿勢でお願いします」


 横山は、夕夏の話には全く耳を貸す様子もなく、同意も得ないうちに半ば強引に夕夏にポーズを取るよう指示を出してきた。

 いちいち反論しても時間の無駄のような気がしたし、撮影だけなら短時間で終わるだろうと思い、とりあえず、横山の言葉を受け入れることにした。


「わかりました。撮影、すぐ終わるんですよね?」

「ええ。そうですね、3分、いや、5分……一応、10分かな?」

「え?どんどん長くなってません?」

「と、とりあえず早く終わりますから、心配ご無用です!」


 そういうと、横山はカメラを構えた。

 夕夏は、手すりにもたれ、頬杖をついて海を眺める姿勢をとった。

 海からは、優しい潮風が吹きつけ、夕夏の髪はふわりと風に舞い踊った。


「あ、姿勢はそんな感じでOKですよ。もう少しで終わります!もうちょっと我慢してくださいね!」


 何だかんだで、10分近く、いや、10分はオーバーしたかもしれない。

 ようやく横山が撮影終了を告げてくれた。


「お疲れさまでした。お蔭でまた1枚、いい写真を撮れました!」

「それはよかった。お役に立てて何よりです」


 様々なポーズを要求されて疲れ気味の夕夏は、ちょっと憮然とした表情で一礼した。


「僕はこれまで何度も鎌倉市内で撮影してるんですけど、あなたは今までで一番の被写体だと思いました。きちんとお礼を出しますんで、今日1日、私の撮影にお付き合いしてくれませんか?」

「ええ!今日、1日?」


 夕夏の体は、金縛りにかかったかのように凍り付いた。

 しかし、横山は申し訳なさそうな表情をするわけでもなく、当然だと言わんばかりに笑顔を浮かべていた。


「そうです。今日1日です。よろしいですよね?」


 折角、世間の気忙しさから解放されたくて、誰にも惑わされず1人になれる時間が欲しくて、ここ鎌倉にやってきたのに……

 やっと最高の被写体に出会えた喜びで満面の笑顔を見せる横山の前で、夕夏の手はこみあげる怒りでひたすら震えていた。

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