後日談95話、後悔先に立たず
セイジの旦那は、童貞だ。
ナールは、結婚を決めた男子がそれではいけないと、仲間たちと共に夜のお店に繰り出すと宣言した。
とてもドン引きのセイジだが、酒の入った場の勢いは奇妙な一体感もあって、飛空艇を出て夜の王都に行くことになった。
義弟となるセイジを祝福し、その場にいたサジーは、他人事でいられるまでは、経験はしておくべきだろうという考えに賛成ではあった。
が、いざ自分も巻き込まれてみると、酔いもさめてくる。銀の翼商会の男衆と歩いている間、段々冷静になってきて、これは果たして結婚前の男子にふさわしい行動なのかと首をひねるのだった。
――これは浮気ではないのか?
生真面目なサジーは思う。そういうお店にいって初体験するのは、恋人がいない男が童貞を捨てるためならわからないでもないが、婚約している男が行くのはどうなのか?
サジーとて、偉そうなことは言えない。自分もその手の経験に乏しく、夜の店にも行ったことはない。
職場の付き合いで酒場に行くことはあって、そういう施設と併設されているところにも行ったことはあるが、そちらはすっぱり断ってきた男である。
家のほうで手解きを受けているから童貞ではないが、経験豊富かと言われるとそんなこともないのが、サジーという男である。
「あの、サジーさん」
先ほどから落ち着かない様子のセイジが、小声で聞いてきた。
「こういうのって、やっぱり、マズくないですか?」
結婚しようと昼間に言った男が、夜には別の女――商売とはいえ、そちらを抱く云々。セイジとて真面目な青年だから、これはソフィアへの裏切りではないかという気持ちで揺れ動いているのだろう。
周りが連れ出さなければ絶対にこなかったし、その仲間たちも酒が入っていなくて、自分を祝福してくれている、という状況でなければお断りをしていたに違いない。
人は、善意の薦めに弱いのだ。
繰り返すが、セイジは真面目で、基本善人なのだ。悪意がない、人の好意に対して断るのはよくないと考える性質である。
「酒の勢いというのは怖いな……」
サジーも、そんな義弟に近い思考の持ち主だから、周囲の盛り上がりに少々引き始めている。
「そもそもの話、これが逆だった時を考えたら――いや」
言いかけて、サジーは口をつぐんだ。
――ソフィアが、そういう店に行って、などと考えたら、セイジ君がかわいそうだ。
ブチ切れてもおかしくない。そう考えるなら、セイジはここで引き返すべきだ。ソフィアが、セイジたちが夜の店に行った、などと知れば、せっかくまとまった結婚もこじれて、そのまま破局もあり得るのではないか?
「サジーさん……?」
「これは、とても、マズイかも」
飲んだ分を吐き出しそうなくらい、よろしくないところに向かっていると自覚するサジーである。おそらくかなり青ざめた顔をしているのでは、とサジーは思った。
「……大丈夫ですか? 顔、青くないですか?」
「あぁ、大丈夫だ、セイジ君――」
私より君のほうが危ない――サジーは言葉を飲み込んだ。これはセイジとソフィアだけの問題ではない。世間でも付き合っている、結婚しているのでは、という認識の二人の破局は、グラスニカ家にとっても評判がよろしくない。
これはよろしくない、本当によろしくない。二人の関係を進展させたと喜んでいたら、日が変わらぬうちに結婚すっとばして離婚とかシャレにもならない。
「……セイジ君」
サジーは、自分たちより前を歩くナールら銀の翼商会の男衆の背中を睨む。
「君は、このまま何も言わず、船に戻りなさい」
「え……?」
「酒の勢いでは許されないところに足を踏み入れる可能性がある。今はそのリスクをとるべきではない」
「ナールたちには――」
「言わなくてもいい。酔っ払いに捕まれば引き返せなくなる。……いいかい、セイジ君。これから私が言う通りに行動しなさい」
サジーは、前を行く男衆の盛り上がりをよそに、セイジにこれからの手順を説明する。飛空艇に戻り、女子たちの飲み会の場に顔を出し、周りの男たちが王都へ飲みに行ったが自分は断ったと言うのだ。
「ナールたちのことは、私が何とかする。少なくとも、ソフィアには今晩君に不審な行動はなかったと理解してもらう。場の雰囲気にのまれて一生をふいにするな」
「……」
「どうしたんだ、セイジ君?」
「いや、サジーさんの言うこともわかるのですが、ナールたちも善意ですし、それを黙って帰ってしまうのは、悪い気がして……」
どこまで善意の塊なのだ、セイジ君――サジーは、義弟に危ういものを感じる。人のいい彼のことだ。その場の空気や押しに負けて、後悔するタイプだ。こんな素晴らしい善人を、破滅の危機から遠ざけなければ!
「男女の営みについては、父上に相談し、専門の教師から教えてもらえるよう手配する。だから童貞云々の心配はいらない。今は、いかがわしいと疑われる店に行って童貞卒業するのは最善ではない、むしろ最悪と言えるのだ」
「……わかりました」
どこか納得していない顔ながら、セイジは了承した。
やはり、銀の翼商会の社長という立場だから、部下たちの好意を無碍にすることが後ろめたいのだろう。部下を持つ人間であるサジーも、それはよく理解している。
だからこそ言おう。
「セイジ君、一つ助言しておく。後ろめたさを感じることはあっても、後悔するよりはマシなのだ。申し訳なさに負けて足を踏みはずした時の後悔は、一生残るのだからね」
・ ・ ・
そのままセイジを帰したサジーは、銀の翼商会の男衆と共に行動した。
ついた先は、やはりそういう性を売りにしている店であった。外装は豪華そのもので、そこそこ金を持っている人が使う店という雰囲気だ。貧乏人お断りの、品のよさそうな店ではあった。
店に入って、ようやくセイジがいないことに気づいたナールたち男衆だったが、もう店内なのだからと、特にもめることなく、それぞれお楽しみに入った。やはり自分たちも楽しみたかったのだろう。
そもそも祝いの席の大半が祝福半分、残りは自分も美味いものを飲み食いするため、というものではある。
所詮、人の善意などこんなものだ。これで一生を後悔することなく過ごせる義弟を思い、サジーは未婚で婚約者もいないのを利用し、夜の世界を体験した。
とても勉強になった。
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