第三話 ぬっぺふほふの嬰児

『せん、せい──先生?」


 舌足らずだった言葉が、徐々に明瞭さを獲得する。

 彼女の鳶色の瞳が、潤んだような色合いでぼくを見つめたとき、さらなる地震が足下を襲った。


 大きい。

 先ほどよりも、なお強い地震。

 変化は、劇的だった。

 あたかも黙示録のごとき光景が、否応なしにぼくの眼窩へと飛び込んでくる。


 溢れ出していた。


 島の中央にそびえる藻採山。

 その峰に深々と突き立っていたはずの封印、貌無岩はもはやない。

 岩の脱落したあとの伽藍堂。

 そこから、形を持たないなにかが染みだしはじめていた。


 青白い、ぶよぶよとした、不定形のそれは。

 どこか無数の、人型の集合体に見えて。

 それらが一斉に、歯を鳴らす。


 ガチガチガチ……

 ガチガチガチ……


 寒さに震えるごとく、恐怖に怯えるごとく、怨嗟を噛み締めるがごとく。

 だが実際は──空腹に支配されて。


 堰を切った。


 山頂から、島の至る所から、不定形のバケモノが噴き出す。

 濁流と化した雨と溶け合ったバケモノ──島民の先祖だったものどもが、広場へと向かって流れ来む!


「も、もどせぇ!」

「いくなぁ!」


 残された住民達は、必死に祝詞を口にする。

 戻せと言えばバケモノ、ぬっぺふほふは反発し、アワシマへと合流して川へ流れる。

 いくなと言えば、ぬっぺふほふは引き合って、アワシマから分裂した神──ヨギホトさまと一体化してここに立つ。


『るぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』


 流されまいと必死なアワシマは、全身から触腕を伸ばし、辺り一帯に手当たり次第に掴まって──そんな腕に巻き付かれた憐れな島民たち諸共、濁流のなかへと沈んでいく。


 そして、ぼくの眼前には教え子の笑顔があるのだ。

 半身だけをヨギホトさまから生やした萌花くんは、グッとこちらへ身を近づける。


「先生」


 近い。

 羊水のようなものに濡れた萌花くんの肌は、妖しくぬめり。髪はのっぺりと湿って。

 近い。

 触れあうような距離に、彼女がいて。


「先生」

「萌花くん、キミは──!」


 伸ばされた手が頬に触れる。電流のような快楽が走った。

 唇に感触。

 弾力のある、けれど柔らかな彼女のそれが、つよく押し当てられて。


 ……再び、距離が開く。

 荒い息を吐く彼女が、うっとりと目を細めながら、恋する乙女のようにぼくを見つめる。

 ああ、口づけをされたのだと、いまになって気がついた。

 とても、とても不器用な口づけだと。


「愛しています、先生」

「……萌花くん。ぼくは」


 言いかけた言葉は、しかし届かない。

 遮るように、彼女は歌う。

 美しい声で、異界の言語で、しかしぼくらに解るように、愛を歌う。


「ずっと先生が欲しかった。先生だけが、私を理解してくれたから。先生と一つになりたかった。だから、我慢してお母さんも食べた。先生のためなら、どんな恐ろしいことにも耐えられたのです」

「もえか、くん」

「ずっと、ずっと、ずっと。ずっとお慕い申し上げていました。だから、だから、先生。私たちと──いいえ。私と、つがいになってください」


 頭がクラクラする。

 気がつけば、甘やかな臭気に鼻孔を冒されている。

 彼女の体液が揮発して、一種の薬物と化しているのか?

 強い酒を一息にあおったような酩酊感。

 冷静な思考には限界があったが、それでもこの状況に近似したものを思い出すことは出来た。


 あの夜だ。

 部屋が破壊され、この教え子の幻影を見た、あの夜と同じ──


「ば、莫迦も休み休み、言え」


 誰かが言った。

 震える声で。

 怯えたような声音で。

 いつもの強さのない声で。


 妣根思慕が、真っ青な顔で。

 ぼくを連れ戻そうと、言葉を口にする。


「や、やめろ稀人。踏みとどまれ、額月。こんな歪んだ交合が、互いにとってよいものの訳がない」

「……黙って、邪魔者。なんでついてきたんですか、あなたなんて」

「お──おれは、自分にそう課したんだ。見届けることを。正しく愛するなら守れるようにって」

「だったら、黙っていてください。お節介なんて、あり得ません!」

「ぎっ!?」

「思慕くん!」


 ヨギホトさまの半身から生えだした触腕のひとつが、歩き巫女の顔を強かに打ち据えた。

 がっくりと、彼女はそのまま意識を失ってしまう。

 とんでもない衝撃だったのだろう、思慕くんの右目を覆う眼帯が、いまにも取れかけていた。

 けれど、ヨギホトは手を緩めず、さらに触腕を振り上げて。


「もえかくん!」


 正常とは言えない思考で、それでもやめさせようと叫ぶ。

 諦めにも似た叫びは、しかし彼女の動きをピタリと止めさせた。

 萌花くんが、ぼくを見る。


「じゃあ、先生、そこで見ていてください。あいつが黙るなら、話を進めるだけです。すぐにすみますから。すぐに、会わせてあげますから」


 極大の怖気が、背筋を走った。

 甘い酩酊感の全てが消し飛ぶほどの、強い恐怖、畏怖、絶望。

 なんだ?

 なにに会わせると言うのだ……?


「あ、ああ、ああああ」


 嬌声にも似たうめき声を、萌花くんがあげる。

 彼女は愛しげに手を伸ばし、自らの腹部をなで上げ、さする。

 官能的ですらある手つき。

 次第に、そこが膨らんでいく。


 十を数える間に、臨月のごとく。

 あたかもまるで、妊婦のように。


 ──妊婦の、ように……?


「やめ──」

「さあ、ここがあなたの世界ですよ!」


 静止の声は届かない。

 随喜の叫びとともに、ヨギホトさまの腹が大きく膨らみ──


 そして──産まれた。


 産道をズルリと滑り落ち、それは泥だらけの地上へと生まれ落ちる。


『きゅ……きゅぃ……』


 それは鯨ではなかった。

 それは人ではなかった。

 それはこの世のものではなかった。

 それはあの世のものでもなかった。


 小ぶりなイルカほどもあるそれは。

 シリコンのような肌を持つ、骨の全てを奪われたようにグニャグニャとした、青白い不定形のモノは。


『きゅぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!』


 異形の、悍ましい産声を上げる。

 ヒルコ。

 神が原初に作り給うた、最初の子。

 あるいは、こう呼ぶべきだろう。



 ──ぬっぺふほふの嬰児、と。



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