第二話 邪霊襲来
それはテッポウユリに似ていた。
それは精霊馬に似ていた。
それはウミウシに似ていた。
それは大蛇に似ていた。
それは深海に降り積もる汚泥に似ていた。
それは──
それは、手足を持つ白鯨だった。
山陰から姿を現した怪異は巨大。
全長は優に二十メートルを超え、高さだけでもビルディングのそれに相当する。
屈強な尻尾が地面に叩きつけられるたび、地震と間違うほどの地鳴りが一帯を揺さぶり、神域にそびえる霊木よりも太い豪腕は、歩むたびに地面を陥没させる。
背面からは、ダイオウイカのそれに似た無数の触腕を生やし、冒涜的にうねらせている。
「うわぁああああああああああああああ!?」
アワシマの姿を知覚した瞬間、蛭井女史が絶叫を上げた。
彼女は狂ったように身を捩り、拘束から脱出しようと大いに暴れたが、やがて裂けるほど大きく目を見開くと、そのままがくりと意識を失ってしまった。
半開きの口からは、ボタボタと涎が垂れ、鼻からはどす黒い血が滴っている。
正気を失ってしまったことが、否応なく伝わってきた。
ぼくとて、狂気に走れるのならそうしたかったが。
しかし、自らが理念と呼ぶ、人格の芯を形成する部分がそれを許さない。
見る。
観る。
視る。
悟る。
ああ、あの腕ならば、カジロブネを投げ落とすことも、そして岩に五指にて穴を穿つことも容易かろう。
正真正銘の、地球の生態系を超越した、埒外存在。
日本画に描かれた、荒ぶる海神としての鯨。
その具象化した怨念の塊が、いまこの広場へと迫っていた。
『うぅららららららららぁあああああああああああああああるぅぅぅうううううううううううううううううううううう──』
白鯨──アワシマが咆哮する。
その醜悪な外見に反し、声は美しい旋律に似て、言語にも似て、しかし決して理解できない/してはならない異界の音が、ぼくらの鼓膜を
対抗するように、島民達は祈祷の声を高らかにしていく。
ズゥン……。
人間の手に酷似した前足が、地面を踏みつけ。
そして〝それ〟は、こちらを視る。
『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
慟哭のごとき咆哮とともに、小山ほどもある質量が移動を開始。
唾液とも消化液ともつかない
散開し、入り口を開く人々。
勇魚宮司が、ニヤリと笑った。
「さあ、萌花ちゃん! おまえが欲しがった男は、ここにいるぞ! この女たちはこいつをたぶらかしたぞ! 三人まとめて、海に沈めてしまえ!」
「勇魚宮司。まだ間に合う。やめるんだ……」
力無くぼくが言えば、彼は嘲るように口元を吊り上げ。
殺到する大質量を避けるため、ぼくらから距離をとる。
「やめてやるものかよ。アワシマを満足させて萌花ちゃんを取り戻す。そして俺は、俺は!」
「やめるんだ」
「馬鹿め! 貴様らはここで死ぬのだ!」
いや。
「アワシマが食べたいのは、あなたなんだよ、勇魚さん」
「は?」
引き攣った笑みを、彼が浮かべた瞬間だった。
『お、おおお、お、おにぃ──おにぃぃぃぃさまぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!』
刹那、確かに聞こえた『お兄様』と。
聞こえてはならない言語に、聞いてはならない異界の言葉を耳にした勇魚宮司は、ハッと背後を振り返り。
そして──
白鯨の大顎が、彼の半身を囓りとった。
「────……?」
赫千勇魚。
彼はきっと、その絶命の瞬間までなにが起きた理解できなかっただろう。
ただ、眼前に再び迫る顎を前にして、酷く不思議そうな。
──随分困ったような表情を浮かべて。
「なんだ菊璃、おまえ、俺が好きだったのか……?」
それが、この島唯一の宮司、その最後の言葉となった。
『るぅらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
狂ったように吠えたてるアワシマ。
伸ばした巨腕は勇魚宮司の身体を鷲掴みにし、彼を虚空の口腔へと押し込んでしまう。
骨、筋膜、血管の千切れる音。
背筋が粟立つような音を立てながら咀嚼するアワシマ。
その前に、ひとりの老爺が立った。
鬼灯親造。
彼はゆっくりと、常に身につけていた手袋を外す。
現れたのは、異形の腕。
人間としての形を失った手指。
彼はそこに、勇魚宮司が取り落とした十字架剣を握ると、大上段に構え。
「もどぉせ──ッ!!」
裂帛の気合いを込めて、アワシマへと振り下ろした。
──このとき、みっつのことが同時に起きた。
ひとつは、この島の至る所にあった巨石が、あの貌無岩を含む巨石群が、栓が抜けるように、何かに押し上げられたように山肌から抜け落ち転がり落ちたこと。
ひとつは、巨大な地震が島を揺るがしたこと。
ひとつは。
『────』
ずるりと、アワシマの肉体が左右にずれる。断絶される。
さらなる獲物を、呪詛にて祟らんと欲するアワシマの頭部が半分に別たれ、住民の多くを巻き沿いにしながら川へと滑り落ちる。
そして、残った半分。
アワシマの半身だったモノが、闇に染まるように黒く、ドス黒く染まっていく。
〝黒鯨〟。
その頭頂部に、生えるものがあった。
羊膜をぷつりと突き破り、てらてらと輝きながら背を伸ばすそれは。
生まれたての子鹿のように、ゆっくりと屹立するそれは。
艶やかな四肢を持ち、短い髪を有する頭部を持ち、豊満な胸を持つ褐色の肌のそれこそは。
『せん、せい──?』
ぼくを見て、萌花くんの顔で、微笑んだ。
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