第四話 なれば怪奇学を生け贄に
「かつてこの地では子殺しが行われ、多くの赤子が海に流されたわ。それらは海の中でひとつの強大な怨念──アワシマへと成り果てたの。ときにアワシマは浜へと漂着し、疫病を流行らせ、或いは津波となって押し寄せ島に祟りをもたらしたわ」
だが、それは一応の対応が可能だった。
「ええ、神へ祈ることで、封印することには成功したの。それがこの島の千曳石──貌無岩に始まる、多くのご神体の正体よ」
「では、ヨギホトというのは?」
「アワシマが寄り神、恵比寿の負の側面なら、ヨギホトさまは正の側面。ひとに
「菊璃巫女……」
ぼくが言いよどめば、彼女は小さく揺れた。
どうやら、笑っているようだった。
「優しいのね、教授先生は。そう、わたしたちの始祖は、漂着したヨギホトさま──異界のクジラを食べた。結果、不老不死と子宝を得たのよ。だけど、それで大団円とは行かなかった。子どもを産めたのは、ヨギホトさまを食べたものだけだったの」
想像する。
あの不気味なヨギホトが浜に打ち上げられ、それに群がる餓鬼さながらのやつれた人々を。
人々の手には刃物が握られ、生きながらに解体され、貪り食われるヨギホトを。
……まるで、人魚伝説そのものじゃないか。
人魚の肉を食べ、不老不死になった八百比丘尼。
河童が持つという、あらゆる疾病を治す傷薬。
そして、ぬっぺふほふの肉──
「だから、彼らは定期的にヨギホトさまを呼び寄せることにした」
「なるほど、そのためのシステムが、あの鳥居と道祖神」
「ええ、ヨギホトさまの骨より作り出しし鳥居は、冥界とこちらを結ぶ門となった。……そして、それが問題だった」
彼女は語る。
海より再び、アワシマが現れるようになったことを。
「アワシマは死者に取り憑き、浜に土左衛門となって打ち上がる。そしてヨギホトさまの力を奪おうと一体化を試みる」
「……では、十郎太さんは」
「いいえ、貝木教授、それは違うの。あれは私たちが背負った咎なのよ」
咎、とは?
「ヨギホトさまを喰らい不老不死になったわたしたちの先祖は、けれど完璧な不死じゃなかった。人を外れても、人の定めから逃れられなかった」
そこで彼女は何故か、思慕くんを見た。
思慕くんは、難しい表情で押し黙っている。
「何かの拍子に命を失えば、悍ましいバケモノ……堕歳児へと成り果ててしまう。その因果から逃れるためには、やはりヨギホトさまが必要。でも、問題はアワシマだけじゃなかった。ヨギホトさまは来訪神。同じように、外から来た人間の子種がなければ、生じさせることが出来なかった」
だから、客人を歓待し、入り婿とする風習が出来た、ということだろうか?
「ええ、そう。あなたも、多分そんな意図で招かれた。でも、そうまでしても、わたしたちは不完全だった。バケモノになる呪いは完全には解けず、変貌した彼らを同じように、アワシマとして石の下に封印してきた……たとえば、先代の神主──わたしとお兄様の父親も、殺され、バケモノとなって封印された」
なぜ?
「それは、お父様が額月多根子と額月惣四郎の脱出を手助けしたから。彼がヨギホトさまの像の秘密を教えたから。さあ、重要なのはここからよ。よく聞いてちょうだい」
彼女の言葉に、ぼくは生唾を飲み込む。
一方で蛭井女史は話について行けないようで、ただただ唖然としていた。
「巫女が天宇受賣命の神楽を奉納したことで、この島の封印を司る千曳石は動き出そうとしている」
「冥府と現世の境界があやふやになっている?」
「そのせいで赤い雨が降っているのよ。海、川、水……それらはこの世とあの世を隔てる境界だから。そして、これはアワシマたちにとって大きなチャンスだわ。彼らはわたしの死体を使い、この島に侵入して、ついにはヨギホトさまを奪った。十郎太を殺したのも、全ては祭りを行わせて、ヨギホトさまの力を強めるため……」
では、あの霧の中ぼくらを襲ったのは、菊璃巫女の肉体を奪ったアワシマで。
そして、十郎太さんをカジロブネで圧殺したのは。
「手形、残っていたでしょう?」
「──っ。あの五つの穴は、指のあとか!」
なんと、なんという怪奇的な……。
「驚いているところ申し訳ないけど、よく聞いてね、貝木教授。いま萌花ちゃんは──アワシマに取り憑かれて、島をうろついているはずなの」
「なっ」
なんで、そんなことになる。
どうして、そうなってしまう?
彼女はただ、巫女の代役をしただけなのに──
「さっきも話したわね、この島の人々は完全な不老不死じゃないって。けれど、なにもなければ死にはしないの」
「ああ」
「でもね、教授。問題があるの。わたしたちは、ヨギホトさまの肉を食べないと、子どもを作ることすら出来ない」
「──あ!」
ピンと、脳内で点と点が繋がった。
祭りがあったあの日、いや、この島に上陸してから一度も、ぼくは子どもを見ていない。
それは、見ていないのではない。存在しなかったのだ。
なぜなら、最後に祭りが行われたのは二十二年前。
十一年前の祭りは、先代神主と額月夫妻の謀略で失敗したから。
だから、子どもを誰も作れなかったのだ!
「……待ってくれ。じゃあ、巫女がヨギホトと同衾する意味ってのは、まさか」
顔が青ざめる。
菊璃巫女は。
押し黙ってから、絞り出すようにして答えた。
「そう、子どもを孕むための、肉体を得るため。来訪神たるヨギホトさまと同一化するために」
「出来るわけがない! 人間が、神の子どもを!」
「それができるのよ。先代巫女の、子宮を食べることでね」
「──は?」
なに?
いま、彼女はなんと言った?
子宮を食べる?
誰が、誰の?
「額月萌花が、額月多根子の」
「────」
卒倒しそうになった。
そのおぞましさに、吐き気を覚えた。
じゃあ、なんだってのか?
蛭井女史が目撃した交通事故は。
あの日ウロブネの内部で見た、人間の胸から下の遺体は。
──額月多根子の、成れの果てだったのか?
「そして、萌花くんは、母親の内臓を、食べた……?」
菊璃巫女が、残酷に頷く。
「巫女は代々、そうやってヨギホトさまの子を孕むために子宮を継承してきた。ヨギホトさまは粘菌のような流体生命。それが子宮に寄生することで、当代、彼女はヨギホトさまの巫女となった。でも、そこでトラブルがあったの。邪恋を抱いたひとが、彼女を自分のモノにしようとしたから。だから、その悪意に反応したアワシマが取り憑いて、肉体を奪われてしまった」
待て。
待ってくれ。
だったら、全部根っこは同じじゃないか。
同根同源。
アワシマも、ヨギホトも、喰われたモノの表と裏で──
「わたしには、そのひとを助けたいという想いがある。それだけが無念となって、いまも残響している」
「あんたは」
思慕くんが、重たい口を開き、言う。
「それがあんたの、愛か? これだけの目に遭いながら?」
「……ええ。きっと、これが生前、わたしが望んでいたことのはずよ」
菊璃巫女は、笑ったようだった。
悲しげに、苦しげに、燃えるように。
「だから、あなたたちに協力してもらいたいの。その人が取り返しのつかないことになる前に、わたしの欲望をねじ曲げたアワシマが彼を殺してしまう前に。大丈夫、アワシマを海へ送り返す方法はあるのよ」
では、その彼というのは。
萌花くんに邪恋を抱いた人というのは。
まさか。
「彼は、わたしの愛しい人。わたしが、欲しかったひと。そして、わたしを殺した彼の名前は──」
そこまでだった。
彼女が、それ以上の続きを口にしようとしたとき、突如として本殿の扉が、蹴破られた。
風が吹き入り、一瞬にして霧が、菊璃巫女が霧散する。
そして、入り口から姿を現したのは、数人の取り巻きを従えた宮司姿の偉丈夫。
褐色の肌の青年は。
菊璃巫女の兄は、邪悪に嗤い、ぼくを見つめると、こう告げた。
「貝木稀人教授先生。自分たちはあなたを、怪異を鎮めるための人柱にしようと思う。即ち──」
赫千勇魚は、蛇のような顔つきで宣った。
「貴様らは、アワシマを冥府へと戻す、生け贄となるのだ!」
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