第三話 霧のなかに立つ者は

 本殿は質実剛健な造りをしていたが、もとより防犯を考えたものではなく、侵入すること自体は容易かった。

 そして、本殿に踏み入ってすぐ、ぼくらはご神体を目にすることとなる。


「大岩か。やはりな」


 独りごち、ひとり納得する。

 そこにあったのは、注連縄から紙垂しでをたらす、ふるく大きな丸岩だった。


 高さはぼくの身長を優に勝り、三メートルはあろうか?

 三〇トンはくだらないだろう大質量が、地面に深々とめり込み、それが木造建築である本殿の中央に位置しているのである。


 一種、異様な光景ではあったが。

 ぼくにとっては、納得しかなかった。


「伊賦夜の地名で行われる天宇受賣命あまのうずめのみことの神楽を奉納される相手。そんなモノは決まっている。同根同源。見立てと代替の産物だ」


 吐き捨てるのと同時に、ぐらりと地面が揺れた。


「地震だっ」

「そ、それより貝木先生、あれをみてくだせぇ……!」


 蛭井女史が指差した方を、ハッと見遣れば、ご神体である巨石と地面の間隙から、モヤモヤと煙のようなものが溢れ出している。

 それが〝霧〟だと解ったときには、本殿の内部は濃霧に充たされてしまっていた。

 そうして、そんな霧の向こうから鈴のような、歌のような声が響く。


「──ええ。やはりあなたは聡明だったようね、貝木教授」


「菊璃巫女……」


 霧の中に、輪郭も曖昧な巫女服の女性が佇んでいる。

 赫千菊璃。

 あまりになにもかもが──表情も、輪郭も、存在感さえも──曖昧だから、本人かどうかすら解らない。

 ただ、何かがそこに〝いる〟ということのみ、ぼくらにはわかる。


「し、死人がなんで……幽霊ですかい!?」


 であるにもかかわらず、この場に居合わせた全員が、彼女を菊璃巫女だと認識したらしい。

 狼狽するぼくらの横で、思慕くんが僅かに表情を険しくするのが解った。

 濃霧のうちにある赫千菊璃……その亡霊のようなモノが、口を開く。


「わたしは、残響のようなモノよ」

「残響?」

「志なかばで散って、本来ならもう、この世には影響を及ぼせないモノ……いいえ、そんなことを説明するのも惜しい。時間がないの。わたしの話を聞いてくださる?」


 彼女の問いかけに、ぼくは頷いた。

 ここまで来て、退くことなど出来ない。


「貝木教授。あなたは真実に近づいている。あなたが予想したとおりこの岩の下は」

黄泉比良坂よもつひらさかに繋がっているんですね?」

「──ええ」


 やはり。

 やはり、そうなのか……


「貝木先生、その、よもつなんとかってのは」

「冥府と現世の境目だよ」

「えっと……」

「この国を作った二柱の神、伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみがいた」


 しかし、伊弉冉は死にいたり、黄泉よもつくにへと落ちた。

 伊弉諾はそれを迎えに行くが、禁忌を破り鬼たちに追いかけられる。

 なんとかこの世とあの世の境目まで逃げた伊弉諾は、千曳石ちびきいしと呼ばれる大岩で黄泉の国の入り口を塞ぎ、この世を生者の国と定義した。


「この、あの世とこの世の境目、黄泉と現世の境界を、黄泉比良坂という。津波境石を覚えているかい?」

「そりゃあ。過去にここまで津波が来たという境目の証しでしょう?」

「黄泉比良坂は、現世──常世の国と彼岸──妣国ははくににして根之堅州国ねのかたすくに、黄泉を繋ぐ境目だ」

「はぁ……?」


 いけない、講義の癖で迂遠な表現をしてしまっている。

 要領を得ない様子の蛭井女史に、ぼくは端的に告げてみせた。


「島根県出雲には、伊賦夜なる地名が存在する。そう、この島と同じ名を有するその坂は、黄泉比良坂のモデルあると言われている! つまり、この岩の下には死者の国が広がっているんだ」

「な──なんですって!?」

「そしてその境界は、いま脆く、開かれようとしているわ」


 菊璃巫女が、続けた。


「それは巫女が舞ったから」

「天宇受賣命は天照大御神が岩戸に隠れたとき、舞い踊ることで封印に隙間を空けた。文字通り天と地の違いがあっても、これはそれに見立てた儀式だとぼくは考えた」

「やっぱり、聡明ね。なら、始まりから話しましょう」


 そして、彼女は語り始める。

 ぼくらが先ほど目を通した、縁起の真実を。

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