断章 巫娼の子守歌

閑話 遠く旧きより来たる椰子の実の詩

 この島で過ごした、初めての夜の出来事を、いまとなってはうまく思い出すことが出来ない。



 鬼灯屋敷ではとんでもない御馳走が振る舞われ、しこたまに酒を勧められて、なんとか断って、どうにも慌ただしく寝床について。

 それで、神社から帰ってこなかった教え子のことが心配で、何度もメールボックスやグループチャットを確認していたように思う。


 どうしても眠れなかったぼくは、そっと縁側に出た。

 せわしなく歩き回り、ふと夜空を見上げれば、数年は拝んでいなかったような満天の星がそこにはあった。


「なんだァ?」


 しばし黄昏れていると、声をかけられた。

 他の誰でもない、妣根思慕にである。


「おまえ、こんな時間まで起きてたのか。前から夜型だとは思ってたが、いい加減寝ないと身体に障るぞ。つーか、夜まで黒眼鏡はやめろよ、さすがに不気味だぜ」

「余計なお世話だよ。キミだって起きているじゃないか」

「おれはいいんだよ、寝だめするから」

「人間は寝だめするように出来ていないよ」

「なに?」


 そこで、彼女はなぜだか片眉を跳ね上げて、とても困ったような顔をした。


「それは、ウン……失言だった。忘れろ。ちょっとスレてきているのかもしれん」

「いいけど」


 言葉の意味はわからないまま、頷く。

 彼女はしばらくなにかを考えていたようだったが、やがてドカリと、その場に腰を下ろした。

 そうして、


「ン」

「なに?」

「ン!」


 バシバシと自分のとなりを、叩いてみせる。

 どうやら座れと言っているらしかった。


 彼女の左側に腰掛けると、無言の時間が過ぎた。

 どちらも口を開くわけでもなく、ただひたすらに星空を見上げている。


 ……根負けしたのは、多分ぼくの方だった。


「萌花くんがさ」

「ああ」

「彼女が帰ってこないのが、心配なんだ。ほら、これでもぼく、担任教授だからさ」

「それで、眠れないのか」

「……うん」


 年若い少女に話す弱音でもないなと思いつつ、それでも首肯したときだった。

 白い繊手が、ぼくの頭を優しく抱きかかえた。


「ちょっ」


 抵抗する間もなく引き倒され、あれよあれよという間にぼくは思慕くんの膝に頭を乗せる形になっていた。

 膝枕である。


 ……なんで?


「思慕くん」

「黙ってろ。眠れないんだろうが」


 いや、そうだけれども。


 彼女はぼくの頭を抱きかかえたまま、空を見上げている。

 だから、表情はよく読み取れない。

 そんな体勢のまま、またしばらくの時間が過ぎて。


「名も知らぬ遠き島より──」


 朗々たる声音が、夜のしじまに弦楽器のごとく響き渡る。


「名も知らぬ遠き島より、流れ寄る椰子の実一つ。故郷ふるさとの岸を離れて、なれはそも波に幾月いくつきもとの木はいや茂れる、枝はなお影をやなせる。われもまたなぎさを枕、孤身ひとりみ浮寝うきねの旅ぞ」


 もの悲しい調べ。

 故郷を思い、なお旅にはせる願い。

 孤独に嘆く、祈りの歌。


 妣根思慕の弦楽器を思わせるしゃがれた声が、静かに、浪々と詩を吟じていく。


「実をとりて胸にあつれば、あらたなり流離りゅうりうれい。海の日の沈むを見れば、たぎり落つ異郷いきょうの涙。思いやる八重やえ汐々しおじお。いずれの日にか国に帰らん」


 歌い終えた彼女は、静かにこちらへと視線を落とした。

 黒目がちな、左だけの眼球に、無窮のすばるのごとき複雑な感情が瞬いては消えるのを、ぼくは確かに目撃した。


「島崎藤村か」

「知ってるのか。さすがプロフェッサー怪奇学」

「やめてくれよ、その名前はじつは堪えるんだ」

「ふん」

「……どうして、この歌を?」


 問いかければ、「さてね」と彼女は返す。


「ちょっとした子守歌さ。だが、おまえはまだ眠くならないらしい。だから、意味のわからない話をしてやるよ」

「意味のわからない話?」


 ああ、意味がわからないと眠くなるだろ?

 と、彼女は言って。

 そして、不思議な話をはじめた。


「ここではないどこか。遙か遠き異境にて、生を知らぬまま生を受け、箱に込められ流されるものたちがいる」

「南洋幻想だね。うつほ船の類いでもある」

「黙って聞け。……それらは永い時間の末にいずこかへと辿り着き、そこで命というものを学ぶ。たくさんのものたちが生を知り、人を知り、欲望を知り、堕落を知り、そして死を知り。やがて、生に倦んで消えていく」

「…………」

「どこかの街に流れ着いた莫迦は、それよりも莫迦な女に拾われて、その全てを真似たが──やがて愛想を尽かされて捨てられてしまった。その莫迦より、よほど莫迦だったからだ」

「それは」

「いいから聞いてろ──莫迦は死んだ。代わりの莫迦は、その仕事を真似た。ニセモノに、行き詰まった同胞たちに終わりの鐘を鳴らすものとなった。それから長い月日が経って、莫迦はいまだに、俗世を歩いている。もうほとんど何もかも、疎んでいるくせに。人間のことを、好きなばかりに」


 悲しげに微笑む彼女。

 思慕くん。

 キミは……


「さあ、つまらん話だ。どうだ眠くなっただろう。眠くなったと言え。それで、そのまま目をつぶっていろ。稀人、あのなァ」


 冷たい月光の降りしきる中。

 彼女はぼくに、貝木稀人に告げる。


「おれはおまえに、見届けて欲しい。そして結論を出して欲しいんだ。だから、また明日から、目を開いていてくれ。稀人、おれは、おまえを──」


 そこまでだった。

 彼女がそう告げたとき、急激な眠気が、ぼくを襲った。


 髪を。

 ぼくの髪を、ちいさなちいさな手が、何度も梳くように撫でて。


「おやすみ、愛しい莫迦者」


 そして、ぼくは眠りに落ちた。

 とても深く、とても安らかな、これまでの人生でもなかった涅槃のような眠りの中に。


「……いつか、おまえも辿り着ければいいな。期待してるぜ、怪奇学」


 意識が消え失せる寸前。

 そんな言葉を、聞いたような気がした。


§§


 これは、最初の夜に聞いた歌の話。

 もしくは、異形の夢の物語。

 そして、いまは遠い日の、記憶──



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