第七話

【10月12日 月曜日】


「はぁ……」




 時刻は午前10時半。


 徐々に眠気が覚め、週末明けの気だるさも抜け出し、ようやく授業の内容が頭に入り始める二時間目の教室に、僕の力のない溜息が木霊する。


 秋月さんへの偽りの告白から三日たった今日、僕は頭を悩ませていた。


 いや、厳密に言うと三日前から。


 金土日を合わせた三日間、僕はずっと悩んでいた。


 おかげで週末は全く休んだ気がしなくて、かえって疲れたくらいだった。




 僕の予想とは裏腹に、先週の金曜日、秋月さんは僕の告白を受け入れてくれた。


 同年代の異性に受け入れてもらえた事、認めてもらえた事は、嬉しい事には嬉しかった。


 でも、今の状況では素直に喜ぶわけにもいかず。


 おかげ様で、秋月さんにフラれなかった僕の罰ゲームは今もまだ継続中だ。


 これから三週間、文化祭の開催日まで、僕は秋月さんに嘘をつき、秋月さんとの関係を深めていかなければならない。




 ………………………………。




 ……いや、関係を深めるって、一体どうすればいいんだ!?


 僕は秋月さんの連絡先はおろか、好きなお菓子でさえも知らない。


 それどころか、まともに話をしたのさえ三日目だ。


 そんな状態で、どう仲良くなればいいのだろうか。


 分からなかった。


 僕は特別女性経験が豊富というわけでもないし、何だったら女友達……いや友達と呼べる人物でさえいるのかも怪しい。


 まともに話せる異性なんて、母と姉くらいだ。


 あぁ、どうしよう……でも、仲良くならないと弓野達がうるさいだろうし、弓野達を満足させなかったら“北中生の叫び”が強行される可能性だってある。


 そうなると、また秋月さんに迷惑が……




 脳に更なる負荷がかかり、僕の頭は机に重くのしかかった。




 そもそも、このまま秋月さんを騙すような事を続けてもいいのだろうか。


 それが一番の疑問であり、一番の悩みだった。


 自分の保身のために、自分の日常を守るために、自分以外の誰かを利用して、生贄にしてもいいのだろうか。


 いいわけがない。


 そんなのダメに決まってる。


 けど、それを拒めば、僕にとっての“普通”は崩れ去ってしまうわけで……。


 問題は山済みで、悩みは尽きなかった。


 僕は一体どうしたら…………


 不安と疑問で、体の中が覆いつくされていくのを感じていた。




 そうやって自分の席で頭を抱えていると、スピーカーからチャイムの音が鳴り響き、二時間目の授業が終了した。


 


「お~い、次の授業クラス別れるから、二組に行くやつは移動しろ~」




 二時間目の授業をしていた担任の先生が、僕達に向かってそう指示を出した。


 あ、そうだった。


 そういえば、三時間目は教育実習生の授業でクラスが半分に分かれるんだった。


 たしか、弓野、大森、根本達はこの教室に残って、二組の半分の生徒達と数学の授業。


 僕を含む三組の半分が二組に移って、残った二組の半分の生徒達と国語の授業だったはず。


 忘れてた……と独り言を言い、机の中から焦って教科書を取り出し自分の教室を出た。


 隣にある二組の教室の扉に手を掛ける。


 その時、ふと、思い出した。


 二組……そういえば秋月さんのクラスって二組だったような……




 黒板に張り出された座席表を見て、自分の出席番号が書かれた場所を確認する。


 窓側の最後列、の二つ前。


 その席を目で追いながら歩き、席の前につく。


 教科書を机に置き、隣を見ると……




「「あっ……」」




 目が合い、視線がぶつかり、二人で間抜けな声を上げた。




「お、おはよう秋月さん……」


「おはようございます……」




 それ以上の言葉は交わさず、黙って自分の席に着く。




 え、えぇ……




 何食わぬ顔で席に着いたけれど、手足からは尋常じゃない量の汗が溢れ出していた。


 隣にいる秋月さんの顔を盗み見る。


 秋月さんも尋常じゃないくらいに汗をかき、あわあわとしていた。



 だ、だよね……良かった……気まずいのは僕だけじゃなかったみたい……


 ……って、全然良くない!


 どうやったらこんな偶然が起こりえるのだろうか。

 

 最近、本当に運が悪すぎる。


 ただでさえ秋月さんとは何を話していいのか分からないのに、先週、告白をうやむやにしたまま別れた分、余計に気まずさに拍車がかかってしまっているじゃないか!


 うわぁ……まずいな……どうしよう……


 まぁ、でも……隣の席に座るのはこの時間だけだし、授業中だから話をする機会もないと思うけど……




「はい、それじゃあ今日の授業では太宰治の「走れメロス」を読み解いていこうと思います。普段は違うクラスの子達と多様な感性を共有してもらいたいので、隣の人とペアを組んで読んでみてください」




 と、そうやって高を括っていると、教育実習の先生から突然の死刑宣告を告げられた。


 お、終わった……


 ポカーンと口を開きながら、静かに絶望する。




 そんな僕に構わずに、周りはガヤガヤと机を動かし始めたので、渋々僕も覚悟を決め、机を動かして秋月さんに声を掛けた。




「えっと……よろしく、秋月さん」


「は、はい! よろしく……お願いします……」




 すると、秋月さんは遠慮がちに頷いてくれた。


 秋月さんからは漫画的表現で言う“動揺”を表す汗が飛んでいるように見えた。


 どうやら、僕と同じように秋月さんもまた気まずさや焦りを感じているらしい。


 うぅ……ごめん秋月さん……僕が告白なんかするから……




 依然として続く微妙な空気に気を落としながら、前の席から回ってきた課題プリントを受け取った。


 一枚を秋月さんに渡し、もう一枚を自分の机の上に置く。


 どうしよう、何を話そう。


 そんな事を考えながら、僕はプリントに目を通した。




 ……ヤバい……さっぱり分からない……。




 ちなみに、秋月さんと突然ペアを組まされて動揺したから分からなくなった……というわけではなかった。


 僕は国語、その中でも読解が大の苦手なのだ。


 国語という教科は、答えの曖昧な問いが多すぎる。


 物語の登場人物の気持ちなんて分かるわけがない。


 僕はエスパーじゃないんだ。


 それが分かるのは作者だけ。


 人の気持ちなんてただでさえ分からないのに、それを未熟な中学生に考えさせるなんて、大人の考える事は分からないなといつも思っていた。


 数学とかなら答えが一つしかないから分かりやすいのに……と、そんな風に嘆いていても仕方がないので、もう一度課題のプリントを見返してみる。




『問2.「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐な王を除かなければならぬと決意した。」とあるが、どうしてメロスは激怒し、決意したのか説明せよ。


 問8.「勇者は、ひどく赤面した」とあるが、勇者とは誰か、そして勇者はなぜ赤面したのか説明せよ』




 ダメだ……全然分からない。


 そもそも、長い文章を読むのが嫌いだった。


 でも、問題は解かないといけないし、どうしたら……


 悩んだ末に、僕は気まずい空気に押し潰されそうになりながら、秋月さんに相談してみる事にした。




「秋月さん……こういうの得意? 僕、国語全然ダメでさ……」


「えっと……はい……多少は……」




 秋月さんはそう言うと、静かに課題プリントに目を通し、数分教科書を黙読した後に口を開いた。







「えっと……多分、問1は「王が人を信じられないという悪徳とも言える理由で人を殺すから」だと思います。冒頭で「メロスには政治が分からない」、けれど、「邪悪に対しては人一倍敏感」だと、そして「単純な男である」とも記述されているので、利己的な理由、複雑な、政治的な理由で怒っていたわけではない。さらに「市民を暴君の手から救うのだ」「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」とも発言しているので、人を疑うという悪徳だけではなく、それを理由に人を殺す王、すなわち暴君の邪悪さに激怒していたんだと思います。」







 ……………え?







「問2は……普通に考えたら勇者はメロスで、裸同然の格好を群衆に見られた事の恥ずかしさ、少女に緋のマントを手渡された事への照れ臭さから赤面したんだと思いますが……でも、この一文、色んな読み取り方ができると思うんですよ。「勇者は、ひどく赤面した。」という一文と、「メロスは激怒した。」という一文は対比になっている。メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐な王を除かなければとならぬと決意した。そうして、様々な困難、葛藤を乗り越えて、死への恐怖も、生への渇望さえも乗り越えて、友を裏切らず、王さえも変えてしまった。そうして、最後の文章。「勇者は、ひどく赤面した」。メロスは村の牧人から勇者になったんですよ。そうなると、この赤面したという一文は、激怒という激しい感情から穏やかな感情への変化を表しているんじゃないのかと……」




 秋月さんは涼しい顔をして、しっかりとした根拠を添えた答えを述べた。


 えぇ……今の短時間でそこまで読み解いたの……すごい……


 食い気味にそう話す秋月さんが、ふと我に返って僕の顔を見る。




「ご、ごめんなさい!……ちょ、調子に乗りました……突然饒舌になって、気持ち悪かったですよね……」




 ノリノリで説明する自分が恥ずかしくなったのか、頬を赤らめ、教科書で自分の顔を隠す秋月さん。




「いや、秋月さんすごいよ!」




 羞恥に悶えている秋月さんに、僕は尊敬の念を込めてそう言った。


 イキイキと話す秋月さんを見た事がなかったから驚いたけれど、好きな事や得意な事に前のめりになってしまうのは決して恥ずかしがるような事じゃない。


 むしろ自信を持つべきだと、そう思った。


 好きな事、得意な事から目を背けない姿勢は美しいと僕は思う。


 それは、僕の中には存在しないものだから。


 だから、秋月さんに伝えておきたかった。




「僕、文章から作者の意図を汲み取ったり、登場人物の気持ちを考えたりするの苦手だから……すごく尊敬する」


「いえ……そんな……」


「どうやったらそんな風にできるの?」




 純粋に、どうしたらいいのかを彼女に聞いた。




「えっと……国語は基本的に文章の中に答えが書いてあるし、文章から作者の意図を想像するのも、登場人物に共感しながら読み進めていくのも私は好きなので……」




 すると、秋月さんは恥ずかしそうにそう言った。




「本、好きなんだね」


「えっと……はい……」




 僕がそう聞くと、秋月さんは遠慮がちな笑顔を浮かべながら頷いた。




 そのまま、他愛のない会話をしながら残りの問題を解いた。


 僕達二人の間にはもう、授業が始まった頃の気まずさは存在していなかった。




 しばらくすると、先生の解説が始まった。


 秋月さんの考察は全て正解。


 僕達のペアだけが、課題のプリントの全問正解を達成した。




「やったね、秋月さん!」


「は、はい……」




 伏し目がちに、遠慮がちに頷く秋月さん。


 けれど、声音は明るいように感じた。


 “地縛霊”だなんて呼ばれているけれど、本来の彼女は明るく、年相応の女の子なんじゃないかと、そう思った。


 好きな事には夢中になり、恥ずかしかったら頬を赤くする。


 そんな“普通”の女子中学生なんだと、今日、この瞬間に知った。


 今までは分からなかった。


 可哀想だとか、不憫だとか、そんな後ろ向きな感情ばかりを彼女に向けていた。


 けれど、違う。


 僕と秋月さんは変わらない。


 ……いや、それも違う。


 もしかしたら、“普通”に近い秋月さんよりも、“普通”を偽る僕の方が、何倍も、何十倍も醜い存在なのかもしれない……




 と、とにかく、秋月さんとペアで本当に助かった。


 苦手な読解も、秋月さんに助けてもらって何とか乗り越える事ができたし……




「はい、それじゃあ追加の課題も出しておくから、再来週までに提出しておくように! 課題の内容は期末テストにも出るからしっかりね!」




 …………え?




「……あの……秋月さん」


「はい?」


「……もしよかったら、放課後、勉強教えてくれないかな?」


「え、えっと……」




 秋月さんは少し悩んだ後、穏やかな笑みを浮かべて僕に言った。




「はい……いいですよ」

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