第二話
昇降口で靴を履き替えて、担任の先生に鼻血が出たから保健室に行ってくると伝える。
保健の先生にガーゼを貰い、血が出ている方の鼻に当てがう。
完全に血が止まったら、保健の先生にお礼を言って、トイレの手洗い場に向かい、血で汚れた部分を洗い流す。
全ての後処理を終えて、体育館に向かおうとする……前に、昇降口に放置していたサッカーボールを自分のクラスの用具入れに戻しておいた。
弓野達が片付けてくれればいいのに……だなんて思ってはいけない。
僕たちは互いを思いあえるような関係性ではなかった。
たまたま同じクラスになった、たまたま席が近かった、たまたま日々を共にしている顔見知り。
特別な感情はなく、クラスが分かれれば吹き飛んでしまうような脆い繋がり。
それが、僕と弓野達との距離間だった。
別に、それが悪い事だなんて思ってない。
中学生の人間関係なんてそんなもんだ。
自分が“普通”であるために、“普通”の学生生活を送るために、みんながみんな誰かを利用し自分を偽っている。
“普通”である事は案外難しく、”普通“でなくなってしまうのはいとも簡単だ。
だから、嫌だなと思う事も、好きじゃないと思う事も、我慢しなくちゃいけない時だってある。
幸い、僕はいじめに遭っているわけではないし、何だかなぁと思う事もあるけれど、それでも、我慢できるくらいの青春は送れている。
だから、贅沢は言えなかった。
自分が“普通”で、“平凡”である事に感謝しなくちゃダメだ。
世の中にはそうじゃない人も、我慢できなくなって命を投げ出すような人もいるんだから。
僕はまだ恵まれている方だろう。
しょうがない。
そう、しょうがないんだ。
そんな事を考えながら、僕は体育館へと続く廊下を歩いた。
ぼんやりとした気分で職員室の前を抜け、角を曲がる。
そのまま中央階段の近くを通っていると、上の階から小さな足音が聞こえてきた。
んん? 生徒は全員体育館にいるはずなのに、一体誰だろう?
そう疑問に思って、立ち止まって様子を窺った。
すると、上の階から、癖のある長髪をした女の子がかなり焦った様子で階段を下ってきた。
その女の子は僕の存在には気付かずに、全速力で(かなり遅い)、パタパタと体育館の方へと走っていった。
あの子は……たしか……
揺れる癖っ毛から覗いた横顔を見て思い出した。
一年生の時に同じクラスだった、秋月文乃さんだ。
あんなに焦ってどうしたんだろうと不思議に思っていると、不意に、大森と根本の会話が脳裏を過った。
「根本、“図書室の地縛霊”って知ってるか?」
「あ? 何だよそれ? 怪談か?」
「ちげーよW、二組の秋月って女子、友達いなくていつも図書館に籠ってるからそう呼ばれてんだって」
「まじかよW、ウケるなW」
あぁ……そうか……。
多分、読書に夢中になって全校集会の事を忘れてしまったんだ。
だから、あんなに焦って……
秋月さんの焦った表情を思い返して、少し嫌な気分になった。
それに、“図書室の地縛霊”だなんてあだ名をつけられている事も不憫に思えた。
別に、誰にも迷惑を掛けてないんだからそっとしておいてあげればいいのに……
一年生の頃、一度だけ秋月さんと隣の席になった事がある。
たしかに人とのコミュニケーションは苦手そうだったけど、僕が教科書を忘れた時、秋月さんは嫌な顔をせずに見せてくれた。
大人しくて物静かだけど、確かな優しさを持った女の子だ。
それを知っている分、その現状が、秋月さんを取り巻く環境が許せなかった。
一体、どこの誰がそんな事言い出して……
……って、人の心配をしている場合じゃない。
早く体育館に行かなくちゃ。
僕の現状だって褒められたものじゃないのに。
そう、自分が置かれた立場を思い出し、僕は体育館へと向かう足を早めた。
体育館の扉を開けると校長先生が話をしていて、扉を開ける音に反応した数人の視線が僕の体に突き刺さった。
注目にたじろいでいると、担任の先生がジェスチャーで列の後ろに並べと指示してくれたので、それに従ってクラスの列の最後尾に足を向けた。
僕の身長は155㎝しかないから、背の大きい男子の後ろに並ぶと、すごく、非常に目立つ。
うわぁ~嫌だな~と思いながら、全てはボールを見失った自分の責任だとあきらめて、列の最後尾に立った。
校長先生の話は終盤に差し掛かっていて、結論の枕詞である「しかし、皆さんは未来ある若者!」というセリフが僕の耳を撫でた。
このセリフが聞こえてきたら、長い話の終わりは近い。
校長先生は悪い人ではないし、生徒の事をすごく思ってくれている先生だと思う。
けど、少し熱血すぎる。
中学生は暑苦しい事や真面目な事をあまり好まない。
だから、生徒からは煙たがられていていつも悲しくなる。
校長先生、嫌いじゃないのにな……
「では、これからも勉学、部活動に励むように!」
ふぅ……とおでこをハンカチで拭いながら、満足げに校長先生が降壇した。
体育館に弛緩した空気が広がっていく。
これが終われば、残すは表彰と事務連絡ぐらいだ。
立ちっぱなしから解放されて自分のクラスに戻れるからか、周りの同級生達の目に光が差していくように見えた。
「続いて、表彰に移ります」
司会の先生がそう言い、続けて何人かの男子生徒の名前が呼ばれた。
体育会系特有の力強い返事が、体育館の壁を伝って全体に反響する。
この声はたしか、バスケ部の人達だ。
うちの学校のバスケ部は強い。
市では断トツ、県でも三本の指に入る強豪で、バスケをするために学区外からうちの中学に通っている子もいるとかいないとか。
レギュラーメンバーはもちろん、控えの選手も優秀。
けど、その中でも一際異才を放つのが、今、僕の隣に並んでいる、隣のクラスのバスケ部キャプテン兼エース……
「生徒を代表して、バスケ部キャプテン大西太一、登壇してください」
「はい!」
……大西太一だ。
爆発音みたいな大声が体育館に響く。
その声に驚いて、僕は体を震わせた。
鼓膜が破れるかと思った。
壇上へと向かう大西の後姿を目で追う。
剛健質実、容貌魁偉、筋骨隆々。
そんな言葉を、大西の筋肉質な背中を見て連想した。
大西は14歳にして身長が177㎝もある怪物で、155㎝しか背の高さがない僕と同じ生き物だとは到底思えなかった。
登壇し、校長先生から賞状を受け取る大西。
一つ一つの動作が堂々としていて、度胸と、自分に対する絶対的な自信が見て取れた。
大西のように体格と才能に恵まれた人間は、自然とそんなオーラが身につくんだろうなと、そう思った。
賞状を小脇に抱えながら降壇する大西。
そのまま司会の先生の隣に向かい、マイクを受け取っている。
うちの学校では表彰が終わったあと、賞状を受け取った人物に「成功の秘訣」を聞くという変わった習わしがある。
僕が一年生の頃はなかったのに、今年度、つまり二年生になってから突然始まった風習だ。
どうしてだろうと不思議に思って、調べてみた事がある。
僕が一年生から二年生に進級する時、この学校で起こった変化はなんだろう。
それは……
それは、前任の校長先生が定年し、今の校長先生が赴任してきた事だ。
校長先生、そんな事するから生徒にウザがられるんじゃ……
「試合の時、緊張する事はありますか?」
「んー、あんまりないです」
「おぉ、すごいね。じゃあ、試合の時に大事にしている事はありますか?」
「いつも通り……“普通”でいる事ですかね」
「“普通”……大西君にとって、普通って何だと思う?」
「うーん……本音とか、思った事とか……やりたい事を我慢しないって言うか……」
少しだけ悩んだ後、大西は前を見据え、良く通る声で言った。
「自分を信じて疑わない事だと思います」
その一言で質問は終わり、司会の先生がお礼を言い、大西はその場を離れた。
全校生徒の拍手が大西に送られる。
雑音の中を顔色一つ変えずに、大西が僕の隣に戻ってくる。
横目で一瞥しながら、すごいなと感心してしまった。
多分、大西は自分を偽らず、誰かを欺かず、ありのままの、思い描いた通りの日常を過ごしているんだろう。
好きな事を好きだと言い、嫌いな事を嫌いだと言い、間違っている事に間違っていると言える。
それが“普通”の人生を送っているのだろう。
僕とは真逆。
好きな事を嫌いだと言い、嫌いな事を好きだと言い、間違っている事から目を逸らして、“普通”に縛られている僕とは正反対だ。
そんな大西が、少し羨ましくなった。
けど、羨ましい気持ちの何倍も、そうできない自分が情けないと、そう思った。
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