33 ~今日も運ぶよワイロワイロ~

 扉を開いた先、カウンターを挟んでマスターが一人、そして他に客が数名。さほど広くもない店内は、ほどよい距離感を皆に与えていた。


「座りますか?」


 店のマスターは、扉の前で立ち往生している二人を促すように二つのハイスツールへ目を配る。サヤカはその仕草につられて一歩踏みだしたが、隣に立つハアトの動きがないことに気づき不審げに立ち止まった。


 このときハアトへ目を向けたのはサヤカだけではなかった。奥に座っていた男性客も二人をじっと見つめていたのだ。ただしサヤカとは違い、明らかな好奇心と明確な敵意を携えている。


 サヤカがその視線に気づいた途端――――男性客の口から汚く罵る言葉の数々が飛び出してきた。もはや言語の体裁は崩れさり、とめどなく流れ出る汚水が二人の体表を叩いていくように。


 たまらず耳を塞ぎ狼狽えるサヤカはすがるような目を隣へ向ける。その目に映るハアトは、懐に手を忍ばせた……おもむろに、無表情に。暴風雨のように二人の間を吹き抜ける騒音のなか、ぱらぱらと風がノートをめくるように彼の時計が姿をあらわす。


 ――――瞬間、ねばついた声音が、甲高く切れの良い無機質な音にかき消された。サヤカが驚いて向き直ると、頭が割れてぐったりと床に横たわる男性と、割れたボトルを握るマスターの姿が。


「いやっ――――」

「――――おっとっと」


 店内には褐色が多い。白く染まったこの国において異質な空間である。そんな中であまりに凄惨な光景を目の当たりにしたサヤカは、その場でふっと意識を失ってしまった。慌てて受け止めるハアトは、無理に起こさないように優しく抱えた。 


 結局、ハアトの時計が光を放つことはなかった。


 そして束の間の静寂。


 他の客がひとり、また一人と愚痴をもらしながら席を立ち、店内には無様な男性客と店のマスター、そしてサヤカとハアトが残っただけだった。


 マスターはカウンターから出て、横たわっている男を引きずり壁に預けるように座らせた。ここでは気を失うことはあっても死ぬことはないため、やがては意識を取り戻す。一連の動作の間、一度も振り返らなかったマスターがようやく二人へと気を向けた。


「あなたも人が悪い。たまに顔を見せたと思えば女連れじゃあ……そりゃね」


「……悪気はありませんでしたがね」


 マスターが使っていない布きれを集め、床に敷いていく。言わずとも意図をくみ取ったハアトは、慎重にゆっくりとサヤカを寝かせた。


「この店は僕の城ですよ。揉め事は外でやってほしいものです」


 襟を正しながら「それに――」と足し、自らの持ち場へ戻り続けた。


「さっき何をしようとしました?」


 その問いにハアトは両手を開き、首を折る。


「まあいいです。……で、何をしに来たんですか?」


「シズエさんを探しています。ここに来ていないかと思いましてね」


 マスターはまばたきもせずにハアトを見つめている。やっと瞼を閉じたころ「まあ座ったら?」と席をすすめ、グラス一杯の水を差しだした。


「それで調べればいいじゃないですか」


 マスターがあごでそれと指すもの、ハアトの胸もとに向けられた目線。


「以前も言ったと思いますが、使いたくないのです」


 ハアトはひと口、続けざまにもうひと口。常温の水を口に含んだ。この国では喉が渇くことがない。この行為はいわば礼儀のようなもの。


「……情報料」


 マスターはカウンターの天板に指を立て、トントントンと催促をおもてにだす。この国に貨幣は存在しない。代わりに彼ら服役者が求める対価を、ハアトは当然知っていた。知った上で尋ねているのだ。

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