32 ~いざとなったらローラー作戦や~

「先ほどは失礼いたしました」


 凪のような静けさが蔓延する国。二人の間を往来する空気が水面下で煮えはじめていたころ、ハアトは無礼な物言いについての詫びに風向きを変える意図を忍ばせた。


「色々と質問をしてしまったのは私ですし……すみません」


 若干の気まずさを孕みながらも、サヤカはそれ以上の追求をやめ、今はただ素直に懐中時計を握る男に付き従っている。目的の人物がダイチからシズエに変わっただけ、二人が合番をほどくことはなかった。


「本来、あなたたちの意見を退ける権利など、我々にはありません」


 さっさと切り替えをすませたサヤカと対照的に、ハアトはみっともなくも先ほどの会話を――いや、自らが放ってしまった言葉を――引きずり歩いている。


「……アイビイも、敬称は不要だなんて言ってましたけど、何をそんなに気を使ってるんですか?」


 時折、彼女の周囲を行き交う人々は、死んでいることが不思議なほど日常を描いている。白く染まる天が裂け、ちらりとでも太陽が顔を出せば、ここが現世だと思えたかもしれない。生きながらにして死後の国に立っている……まるで夢を見ているように。


「もうそろそろですね」


 ハアトは彼女の疑問には反応せずに言った。


 彼の時計はすでに光を失っており、その文字盤も仕事を終えたとばかりに殻に引きこもっている。彼はシズエの名前を聞いた途端、時計による道案内の必要性を放棄した。目的の彼女がどこに屯しているか、だいたいの予想がついていたからだ。


 まずはここ、重厚な色調が人々の意を引く玄関扉、その向こうにあるバー。扉が付いていない区画が多数を占めるこの国で、扉付きしかもアンティーク。入国当初のシズエが若さに任せ、ひるむことなく最初に扉を開けたのがこの店だった。


 ハアトが扉のハンドルに手をかけ、動きを止める……。


「入らないんですか?」


 先の質問を無視されてから口を閉ざしていたサヤカも、彼のおかしな挙動に口を挟まざるをえない。


 伏し目がちに手もと付近を見ていたハアトの目が、引かれた顎につられてサヤカを向いた。


「この中にシズエさんがいるかどうかはわかりません。なるべく時計を使いたくないのです。ですが、この店の主人は確実にいます。その方は服役者です。そして他にも客がいるでしょう……。よろしいですね?」


 サヤカはまったくもって意味がわからない表情のまま首を肯定させる。しかし、件のハアトは彼女の意思を看取る前にラッチが外れる音を鳴らしていた。


「いらっしゃいませ――――これはこれは。めずらしい」

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