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 本社ビル最上層の会議室に足を踏み入れると、独特の威容にまずは目を奪われることになる。

 机や椅子にはじまり、調度品は華美な装いの一切を省いたシンプルな造りながらもすべて最上級品であることを言外に窺わせるもので、それらは寸分の狂いも歪みもなく丁寧になされたそれらの配置と相まって、さほど広くもない会議室の中に、ある種の神殿めいた厳粛な空気を演出していた。

 神殿とそう呼んでしまっても、差し支えはないかもしれない。この会議室は私の生涯において唯一、自ずから威儀を正すことを求められる、ある種の神殿にほかならなかった。20代も終わりの頃に、はじめてこの議場に招かれて以来、首筋から背筋までを一直線に凍てつかせるような独特の張りつめた感覚は、いまも無くなってはくれない。

 髪を撫でつけネクタイの形を整えたいという思いや、あるいは今朝、鏡の前で行ったチェックが漏れなく完璧なものでありましたようにとの祈念を、この場に足を踏み入れるたびに私は胸に抱かずにはいられなかった。

 

「安心しろよ、今日もスマートに決まっているじゃないか」


やや濁りがかった低い声が上がり、緊張の帳が弛緩する。


「ただ、小ぎれいさなんかよりおれはガッツや腕力が大事だと思うがな…アニマル・スピリットさ。…毛深いから言ってると思わないでくれよ?」


役員たちの何人かが、つられて静かに笑い声をあげた。感情を表に出さないよう努めて脇を見やると、先客――テッドは例の如く、その声質に似つかわしいむくつけき佇まいのまま、そこに座っていた。

 テッドは私の同期にあたる。脇を刈り上げたツーブロックの髪型、どこか不遜にすら見える、自信満々の表情を支える分厚く広い顎には、髭剃り跡が青々しく残る。節くれだった太い手指に目立つ体毛を処理することは、ごくまれだ。なにより特徴的な高級スーツに身を包んでなお激しく主張する筋骨隆々の肉体と相まって、テッドは今にも飛びかかろうと構えるある種の大型の類人猿を思わせる風貌をしていた。


 大学のフットボールチームで主将を務めていたという彼が、まさしくその外観が与える通りの性格を持つ剛腕のビジネスパーソンであることを、私は熟知していた。私とテッドとはなにもかもが対照的と、誰もがそう評する。それだけに今回の人事は、社内を越えて、業界の知人たちの間でも好奇の眼差しを以て迎えられていた。


 以前から内示されていたこともあって、今日新たに与えられる重要な情報はない。それでもあえて役員を集めたうえで訓示を下すということそのものが、これがある種の儀式であり、この議場のメンバーに――言い換えれば、この神殿の参事に新たに加わるのがいずれかを暗に示す通過儀礼である証左であると言えた。


 豪奢な一面ガラス張りの窓の向こう、眼下に広がる摩天楼群からはちょうど私とテッド、それぞれの統括チームの担当区域が一望できる。私とテッド、全く正反対のタイプである生え抜きの出世頭二人に二分して与えられるのは社運の懸かったその再開発計画だった。ここが、私たち二人の未来を分ける主戦場になるはずだ。


 実のところ、私は過度な強引さをアニマル・スピッリッツと僭称して憚らないこのライバルに、内心では十年来の強い対抗心と、心理の奥底にこびりつくような嫌悪感を覚えていた。物腰柔らかく、クリーンで、フェアで、スマート。テッドと出会う以前からの私の身代であり周知のうえとなっているプレースタイルは、篩い分けを経てテッドとただ二人出世レースに残った今となっては、より強く打ち出していくべき最重要の差別化戦略のはずだった。


 だがしかし、いまの私は"飛び道具"――いや爆弾とでも呼ぶべきか――を持っている。使えば、勝てるだろう。"持っている"というその事実そのものが、ある意味では私が十年来貫き、支持を獲得してきたプレースタイルとその信頼を既存しうる、私はいまだ逡巡していた。


 ふと奇妙な予感を感じ、午前の陽光に照らされたガラス張りの窓の中に、映る私自身の姿を確かめる。そこにはやはりというべきか、見慣れた猿が映りこんでいた。

それは、照り返しと相まってはっきりとは見えない私の姿に比べてあまりにも鮮明にくっきりと映り込み、その輪郭の克明さに比して、余りにも暢気に毛づくろいをしている、いつもの猿の姿だった。私は暫時、どこか不穏な予感を醸す猿のその円形の瞳から目が離せずにいた。

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