4話

 天使というのは、第一階層に住んでいるという。

 第一階層から全てを見渡し、その判断は神に等しく、この地下都市がなぜ作られたかも知っている。

 ……だそうだ。


 その天使というのは種族あるいは人間の亜種なのか、セロと出会う前、あたしには伝説であるか架空であるか、判断できる材料はなかった。

 神話というべきか、都市伝説というべきか。この幾魔学地下都市では同義語だった。

 しかし、家族を皆殺しにして自分の人生をめちゃくちゃにした仇敵という確かな存在感が、セロには有った。

 今、バックの中から出てきた幼い少女。

 キョトンとした可愛らしい彼女の姿がセロにはどう見えているのか、あたしにはわからない。


「――お前は天使だな」

「わたしは天使なの?」

「ああ。天使だ」

「そうなの、ありがとう!」


 キャリーバックから抜け出した彼女は、立ち上がりながら清々しいまでに応じてくれた。

 天使に相応しい笑顔は、セロの家族の仇と考えると不釣り合いすぎるほどに素晴らしい笑顔だった。

 セロの方は、小さな女の子と話すには不釣り合いな堅さで、仇と話すには冷静すぎているのだ。

 あたしは……どうしていいのか、わかっていなかった。この場にいること自体が、不釣り合いに思えたからだ。


「ねえ、ここはどこ?」

「第六階層、俺の事務所だ」

「だいろくかいそう、ってなに?」

「……ふざけているのか?」

「ううん、質問しているの」

「俺が質問する。お前は……なんでキャリーバックの中にいた?」

「私はバックの中にいたの?」


 あたしはテクテクとふたりの間に歩み寄った。

 今、セロは刀を持っていないし、急に殴り掛かったりしたりはしないと思う。

 思うけれど、何をするのか、何をして良いのかセロは自分で分かっていないように見えた。

 女の子とセロ、ふたりを守れるのはあたしだけ。漠然と、そう思った。


「話が進まないヨ。あなた、名前はハ? 何ちゃン?」

「エルだよ。トリさん、さっきカバンを叩いてたトリさん?」

「そうヨ、エルちゃン。あたしはワト。こっちのヒトはセロ。あなたはどこから来たノ?」

「……あたし、どこから来たの?」

「わからなイ? 何階層かだけでも?」

「カイソウ、ってなに?」

「来るときに、エレベーターで昇るか降りるかしなかっタ? 大きいヤツよ」

「……わかんない……」

「わかること、なんでも良いから話してくれないかナ。あなたのことならなんでも聞きたいワ」

「……なんにも、分からない」


 質問に応じるたび、笑顔が曇っていく。

 自分が何もわかっていないことを認識し、自分が安息の地に居るのではないというこに気が付いてしまったのだ。

 なんて言えば良い? どうすれば良い? そんなとき――エルちゃんのお腹が鳴った。続いて、あたしのお腹も鳴った。

 そういえば、あたしもお腹が空いてるんだった。


「お腹、空いたわね」

「うん」

「なんか、食べよっか!」

「うん!」

「……エル。歩き方は覚えているか? 上の俺たちの家に行こう」


 セロはゆっくりと立ち上がり、ドアへと先に向かって留め金とチェーンを二本かける。

 あえて急がず、考えを整えるため指を動かす理由を求めている、そういう風に見える。

 あたしは階段を昇るセロの肩に飛び乗り、後ろから着いてくる歩くエルちゃんを見つつ、耳元で言葉を選んだ。


「セロは天使が見付かったら斬りかかるかと思ってタ」

「俺はまだ天使を斬れる剣を持ってない、やれることなんてないさ」


 言い訳、だとあたしにもセロにも分かっていることが分かっている。

 エルちゃんはセロの仇本人じゃない。

 ただ同じ天使というだけの女の子で、試しに斬りかかったりもしない。

 子供の用に感情的になれるわけじゃない。セロは頭が良い……だから、見ていられない。


「セロは、自分より弱いコ、斬ったりできないと思うよ」

「……腕がな。痛むんだよな」


 この事務所の階段はよく軋む。ギイギイと。材木が安いんだと思う。

 セロは自分の右腕を見る。軋むんだろう。幾魔学の粋を集めて作られた腕が、安っぽい階段のように情けない音を立てているような気がした。

 八年前、天使に切り落とされた方の腕。セロの右腕は、今もまだ、あの悪夢の中にいるらしかった。

 その腕が悪夢から目覚めるのは、天使たちを斬り殺したときだけなのだろうか。


「……三人分だからカンヅメ開けるか。五郎丸刑事から貰った竜の大和煮があったはずだ」

「さんせーイ! エルちゃん、竜、食べれる?」

「りゅう……? ドラゴンさん?」

「違う違ウ。土竜。サンドワーム。第七階層の外で捕れるヤツのこト! ビタミンDが豊富なのヨ!」


 説明にキョトンとしている。本当に何も知らないんだ。エルちゃん。

 第七階層は、“実在するかすらわからない”第一・第九階層を除き、唯一地下都市から外に出ることができる階層。

 外部に出てドワーフを筆頭に坑道を広げているが、そこで生息しているサンドワームと戦うことになる。

 ……っと、エルちゃんはあたしの話より、セロの料理を見ている。

 ガスレンジに鍋をかけてから、ニンニクを刻み火にかけてからタマネギを串切りにする。

 ニンニクが焦げ始めた頃に、ちょうど切り終わったタマネギを鍋に加え、竜の大和煮の汁を回し入れ……。

 あー、めちゃくちゃ腹減ってきた。


「エルちゃん、あの棚にお皿が有るから取りに行きましョ」

「はーい!」


 あたしはエルちゃんの頭の上に飛び移り、棚まで案内する。

 トングも有るはずだが、探すのが面倒だとセロは菜箸を使ってパスタを盛りつけ、その上に具をよそる。

 セロ特製の竜肉入り米粉スパゲティ。

 純小麦粉のパスタは高い。第八階層のハチマイを使った米粉スパゲティ。

 この家の前の持ち主が使っていたちゃぶ台に三人分とお茶。レストランセロ、って感じ。


「いただきまーす!」

「ちゃんとしてるのねエルちゃん。それ大事ヨ。セロはいつも言わないかラ」

「……いただきます」

「はい、いただきまス!」


 あたし、無理に明るく喋ってるなぁ。どうしよう。あたしが一番関係ないのに、焦ってる。

 一口食べるたびに幸せになるいつものスパゲティを食べる空気が、重い。

 何口か食べたところで、セロが切り出した。


「……改めて自己紹介しようか。俺は猛城セロ。探偵をしている」

「あたしはワト。見ての通り美人のカラス」

「エル! 何も覚えてません!」

「記憶喪失ってことか」

「それ知ってる。記憶がない人のことだよね……わたし、記憶喪失なの?」

「……羨ましいな。俺も記憶を忘れたい……だが、忘れられないことがある……俺は家族を天使に殺された」


 続きをエルちゃんは促すようにセロを見据えている。

 あたしは変わらずスパゲティを食べる。何が有るにしろ、食べとかないといけない。

 嵐が起きるかもしれない。


「八年前だ。父親は目の前で殺され、母親は俺を助けるために死んだ。家族同然だったメイドたち、コック、運転手……全員、屋敷と一緒に焼け死んだ。生き残ったのは母親に炎の中を抱きかかえられて走った俺だけだ」


 セロは左腕で右腕を抑えた。幻肢痛。

 四肢を欠損した脳は腕があったことを忘れられず、ないはずの腕に痛みを走らせる。それはセロの精神が家族を忘れられないことに似ている。

 いつまでも、いつまでも。傷はないのに傷み続ける右腕と、見えない傷が癒えることのない精神。

 義手を付けて手袋とコートを付ければ見た目には分からない大きすぎる傷が塞がる日は、来ないのだろうか。


「俺の父親は戦爵(せんしゃく)という戦いを専門とする貴族の最上位。甲爵(こうしゃく)だった。

 八年前の段階で、メイヅス最強の剣士だったが、たったひとりの天使に殺された。

 暴走した二百メートルのサンドワーム、暴徒化したオーガの群れ、テロリストのゴーレム戦車、苦戦したことすらないオヤジは、なにもできずに、殺された」

「それ……わたしが、やったの?」


 セロは心が震えている。エルちゃんは、声も揺れていた。

 あたしはエルちゃんの手の上に重なるように乗る。セロは酷なことをエルちゃんに言っていると分かっている。

 だから、エルちゃんに寄り添ってくれとセロが言葉にせずに言っている。セロのためにもエルちゃんを守る。

 あたしの背にエルちゃんの手が重なった。小さな手が震えている。


「かなり似ているし面影もあるが、八年前に俺より年上だった天使だ。天使が時間経過と共に若返るとかそういうことがなければ、ありえない」

「なら、もしかしたら、わたしのお姉さんやお母さんが、お兄さんの家族を……殺した?」

「その可能性は……低くない、だろうな」

「なら……仕方ないね」

「あ?」

「わたしの家族がお兄さんの家族を殺したなら、わたしの家族をお兄さんが殺す。正しいと思う」


 記憶が無いからこそか、幼いからこそか、天使だからこそだろうか。

 彼女は泣きそうだったが、本音を言っているように見えてしまった。

 女の子にこんなこと言わせちゃいけないって、分かってるよね、セロ。


「……あのとき天使もそう言っていたよ。俺の父親を殺すとき“正しくない者を殺す”ってな」

「ねえセロ、正しければエルちゃんの家族、殺すノ?」

「正しくなくても殺すしかないんだ。俺はさ」

「あたしはそんな手伝いをしないヨ」

「――エルの家族を探すのは良いだろ? エルを返さないといけない。そこまで手伝ってくれよ。相棒」


 天使が血も涙もない殺人犯なら敵討ちも手伝う気でいた。

 けどエルちゃんにこんな顔をさせるんなら手伝いたくない。手伝えない。

 セロは正しいことを見極める探偵だけど、あたしにはそんなことはできない。

 復讐を遂げなければセロの人生が始まらないなんて、そんなわけない。セロは優しい子だもの。

 あたしが生きてきた数百年で出会った人の中で、いちばん優しい子だもの。

 だからこそ、軽々しく言葉にはできない。家族を殺されたことを忘れろ、復讐をやめろなんてことを、言えるわけが、ないんだ。

 あたしは、正しいか間違っているかで物事を判断したくない。セロやエルちゃんが迷ったりできないなら、あたしがふたりの分も迷う。


「……なんのつもりでダモンはエルちゃんを送り付けたのかしラ?」

「さあな。だが……ヒントはある」


 セロは、先ほどキャリーバッグに付いていた伝票を出した。

 そこにはここの住所と宛名、もちろん送り主であるダモンの名前と……あれ?


「変なところから発送されてることになってなイ?」

「そう。これは第二階層の郵便局から配達されている。どうしてだと思う?」


 んと、つまり? ダモンは? えっと、なんで……。

 あたしが整理している内に、スパゲティを食べ終えたエルちゃんが手を挙げた。


「つまり、そのダモンっていう人は、何か理由が有って上の階層から荷物を出した、ってことだよね」

「多分な。現在、ダモンが店を閉めているってのを考えれば……第二階層に何かある、と考えるべきだな」

「なら、第二階層っていうところに行くんですね?」

「いいや? その前に」


 当たり前だろ? という表情でセロは壁に掛けてあるバイクのキーを取った。


「警察。エルちゃん、迷子なんだからまず行かないとダメだろ」


 かくして、セロはいつものこととばかりに再び事件に繰り出すのだ。

 神話にしても科学にしても、いつでも残酷にできているんだ。

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