貫入

 焼き物のうち、はじめから表面がひび割れているものがある。そうした模様のことを貫入と呼ぶのだ。と、私が知ったのは、柳家骨董店の手伝いをするようになってからであった。

 柳家骨董店に来る客は、大抵が柳老人の知人、もしくは知人の知人、あるいは同業者で、飛び入りの客は滅多に来ない。そもそも骨董店というのはどうにも敷居が高く感じられるようで、特に若者などは、せいぜい爺ちゃん婆ちゃんについてきたお子様お孫様くらいが関の山であった。それゆえ、私は彼女が初めて来店した折、誰か常連の一人の孫娘で、お使いか何かでやってきたのだろうと思い違いをしたのである。

 真夏日の午後、そのお客は水色の涼しげな茶碗を携えてやってきた。彼女は来津ですと名乗り、歳は私より三つ四つほど上であると思われる_大変落ち着き払った態度で、柳さんはいますかと私に問うた。 

 用件は茶碗の買取であった。ひび割れた薄氷のような貫入の下に白い波のような模様が入っていて大変美味しそうだったのを今でも思い出す。茶碗をくるりとひっくり返すと、底に柄の歪んだ柄杓のような模様がある。今田不定いまだふていの作だと柳老人は言った。

 今田不定はかつてT県F郡に存在していた文福窯なる製陶工房の二代目である。文福窯は、遠く江戸時代、遠く中国 尾淡鎮おたんちんで製陶技術を学んだという一代目、今田未定いまだみていが開いたもので、三代目、今田非定いまだひていの代に至るまでおよそ百年間続いた。その作風は尽くてんでバラバラで、他所の焼き物をまねてはまた別の物をまね、あれをまねてはこれをまね、故にまたの名を贋作窯と呼ぶ。しかし今田一族のこだわりは尋常ではなく、当時の好事家の記録によれば、備前をまねる際は備前の土と炭を、美濃をまねる際は美濃の土と炭を、そうして本物以上に金を手間をかけて贋作を作っていたとのことである。非定の死後、後継者不在により文福窯は閉じられた。しかし噂では、文福窯という名は失われたものの、その理念の継承者により秘密狸に製陶は続いているとかいないとか、ともかく謎と与太話多き窯なのである。

 来津と名乗る女性が持ってきた今田不定の作もまた贋作であった。柳老人いわくより詳しく言うならば、贋作の贋作であり、しかしながら今田不定の作としては真作であるという。ことのあらましを聞けば、そもこの水色の茶碗は一代目・未定作の物としてその見た目が知られており、これは不定による未定の贋作で、そして未定もまた何かをまねてを作ったに他ならないため、不定は贋作の贋作を作ったことになる。

 贋作の贋作は買い取られ、来津さんは帰っていった。

 水色の貫入茶碗は箱に厳重に仕舞われ、柳老人が奥へ持っていってしまった。材料と火入れの方法が似通っている食器の味は同じなのだろうか。どうにかして、あの貫入茶碗の味と、その真作の味と、その真の真作の味を比べることができないものか、ひたすらに逡巡するのであった。

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皿食う男 八京間 @irohani1682

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