甘味

 誰一人として到底知る由もないが、私の主食は食器である。朝食に丸皿を2枚食べ、昼食は平皿一枚食べ、小腹が空いたら小皿を、ちょうど煎餅のように食べて、夕飯には角皿と小鉢を食べる。晩酌には徳利お猪口を肴にそのまま酒を飲む。箸やフォークの類も食べる。レンゲの曲面の一層薄い部分はパリパリの触感が面白いし、磁器製の白いのなどはひとなめするだけで甘さが口の中に広がるので、小腹の空いたり、やけに口さみしく思ったりした折にもってこいなのであった。だのに、今では口にするたびに、味覚と別のところで苦々しい。

 カレーの匂いが帰心を誘うから、京都祇園のどこそこで禁止されている風に、食と記憶とはえてして結びつきやすいものである。同時に、記憶と言うのはそれがやたら衝撃的であったものか、そうでなければ嫌なことばかり覚えてしまうものである。

 学生時代に知り合った逸景という男は、逃げることだけが大の得意で、しかもそれを好んでおり、三度の飯からも逃亡するような酔狂人であった。逃げるという行為は追う者と追われる者の二者が集まって初めて成立する行為であるが、逃げるのが好きな者が物珍しいのと同じく、追うのが好きな者もそういやしない。

 そのため逸景は、追われるためだけにしばしば他人を怒らせた。その積み重ね故か、人の怒りの琴線の様なものを読み解くのが妙に上手く、時には当人も与り知らぬ堪忍袋の緒をいとも簡単に千切ってみせるのであった。そうして顰蹙を買ってばかりいるから、常に追われていて、しかしとんと逃げおおせてしまっては面白くないからと、時折我々の前に現れる。顔を合わせれば嫌な思いをするからと、追うのをやめたころに神出鬼没、また現れて追わねばならなくなる。たいへん不埒な輩である。

 かくいう私も、彼に苦渋を飲まされたことを思い出すとキリがない。聞いた待ち合わせに誰もいなかったり、気づいたら身に覚えのないあだ名が流布していたり、貸したノートがコインロッカーの鍵になって帰ってきたり_この時は百円儲けたから良いが_数えると両手の指では足りないほどである。

 中でも一番に覚えているのは、彼がレンゲでパフェを食った時だ。

 学校の食堂というのは、常々一貫性がない。一貫性がないということで一貫としているとも言えるように思うが、それはさておいて、中華に和食に、時折気まぐれのように加わるスイーツ等々、とにかく節操がない。いろいろあるから、どんな食べ合わせもできるということが言いたいのだけれど、私には関係がないことであるから、あまり詳しくは覚えていない。

 昼飯時の終わったころ、合同の課題か何かをするために机の広い所を何人かで借りていて、そこで何かしら書いたり喋ったりしていたのだが、たまたま他の輩が籍を外して私が一人でいたときになって、逸景はゆらりふらり現れた。プラスチックのトレーの上にパフェグラス一つ乗っけて、席を探す頼りない足取りのまま、こちらへ近寄ってきたのだ。

 パフェの入れ物、パフェグラスとかゴブレットとか呼ばれる種々のものは、ガラスの中でも素晴らしいと思う。そもそもパフェの由来がパーフェクトだと聴くから、その器もパーフェクトに決まっている。脚台の付け根、透明な蜜の世にガラスが厚く溜まっているところの濃厚な美味さと言ったら、他に代わるものがない。ただ、大概が縦に長くて、それゆえパフェに添えられるスプーンは、ほとんどマドラーと変わらないような、柄が長く、お椀の部分が華奢なものである。

 だのに、その時逸景の持っていた匙はどういうわけかレンゲであった。口径の小さいグラスにレンゲを突っ込んで、がちがちと縁に、壁にぶつけながら食べているのを見て、私は思わず大声を出したのを今でも覚えている。

 いざその光景を目にするまで、私も私がこんなことで怒るとは知りもしなかった。パフェグラスにレンゲなど言語道断失礼千万、なんちゃかかんちゃか、恥を知れ大馬鹿者、なんちゃらなんちゃら。声を荒げてしまった手前、引き下がろうにも引き下がれず、言葉に詰まりながら道理の破綻した説教を喋っているうちに、逸景はひょいと逃げ出してしまった。追おうにも己のしていることが己でわからないから、文字通り手も足も出ない。しょうがないから閉口して席に座ったままでいたら、そのうちに逸景は戻ってきて、君もよくわからん奴だなと云って再び飯を食っていた。

 何が気に入らなかったのか、今になっても時折考えるが、未だ昭然たる答えは浮かばず、思い出すたびに口惜しい心地がするばかりである。

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