玻璃
誰一人として到底知る由もないが、私の主食は食器である。朝食に丸皿を2枚食べ、昼食は平皿一枚食べ、小腹が空いたら小皿を、ちょうど煎餅のように食べて、夕飯には角皿と小鉢を食べる。晩酌には徳利を肴にそのまま酒を飲む。
食器と一概に言っても、その種類は様々である。土器に始まり、陶器、漆器、木器、アルミや銅のタンブラー、最近ではプラスチックに、紙製の器だってある。
しかし、夏は専らガラスの季節である。ガラスというのは総じて無臭で、酸っぱく、最後後味は薄ら甘い。特に無色透明のシンプルなガラス食器ほど顕著に、見目が爽やかなら味も爽やかで、ひょっとすると食べる人間まで爽やかになるかと思うが、それは単なる願望にすぎず、私は年がら年中じめじめと過ごしている。
陶器の食器が釉薬で味わいを変えるように、ガラスも色によって単なる酸味甘味に様々な味が加わる。陶器と比べ深みは劣るが、冷蔵庫で冷やしておいたガラス食器を一息に割って食べるのは格別の旨さである。割る際の思い切りの良いガシャンという衝撃音も無類の涼しさを感じさせる。
ガラスの中でも、一番美味いのは、日本の古いガラス、すなわち和ガラスと呼ばれる類のものである。和ガラスは古美術としての価値も相まってなかなか食べることのできない高級品であるが、現在一般に流通しているガラス食器と比べて断面が滑らかに溶ける。氷が解ける様子よりも、ソフトクリームやジェラートの様な、少しねっとりとした溶け方をする。最初から凍ってはいないけれど、一番似ているのは蜂蜜である。少しお行儀が悪いが、一口かじって解け始めた断面を舐めて舌先で淡い甘さを味わうのはこの上なく美味である。
和ガラスはびいどろと呼ばれるものと、ぎやまんと呼ばれるものに分けることができる。時代やら成法やら種々に異なるけれど、食通として注目すべきはその厚みである。びいどろの方が古く、薄手で、大概色がついている。透明で薄いガラスを作る技術が江戸の始めにはなかったためである。ぎやまんの方は分厚いガラスで、装飾彫りがなされていたりする。例えば江戸切子などはぎやまんの一つと呼んでかまわないだろう。
断面の溶けた部分が美味いので、私はぎやまんの方が好きであるが、びいどろの深い瑠璃色だとか、薄く色のついた鶴首徳利などはより甘味が強く、勿論食べられるというのならいつでも食べたい。
日頃滅多に食べやしないけれど、ぎやまんという言葉を耳にするたびに私が思い浮かべるのは青色の江戸切子のぐい飲みを思い出す。逆さの円錐に小さい台がついていて、麻の葉の文様みたいなのが彫り込まれているものである。そうというのも、忘れようにも忘れられない残念な思い出があるせいだ。
高校以来の友人に、メッタラという奴がいる。ある年の七月末、どういうわけか彼の実家の蔵の掃除を手伝わされたことがあった。今でも詳細な理由がわからないが、確か学校の課題を見せてもらったお礼か、遊びに来いと言われて行ったらそういうことになっていたか、ともかく蔵の掃除を手伝う羽目になったのだ。メッタラの住んでいる家はごく普通の一般家庭であったけれど、父方の実家は地に根付いて長く、たいそう立派な家であった。ひし形に漆喰が塗り固められた蔵の二階には山ほど古い道具や本が転がっていて、足の踏み場もないほどである。天井の深い茶色をした梁にひしと掴まって、蝉が一匹ミヨミヨと鳴いていたのを覚えている。
現当主である彼の祖父は、我々を呼び立てた張本人であり、古くは大学教授であり、地主であり、また、無類の金魚好きでもあった。
蔵の片づけを終えた後、休憩という名目で居間に上げてもらい、スイカをごちそうになった。あんなものは腹の足しにもならない。西瓜という名前を捨てて、天然性色水とでも名乗るべきである。さておき、居間の光景は、当時の私にとって、甚だ恐ろしかった。左右どちらに目をやっても金魚、金魚、金魚。金魚の住まいは金魚鉢のみならず。竹の筆立て、ジャム瓶、傘立て、ともかく水を入れて保てる容器全てに金魚が仕込まれている。容器というのはもちろん食器も例外ではなくて、平生メッタラの祖父が用いているであろう少しの食器以外は、部屋中にちりばめられた水槽の一つとなっていた。
これは誠に許しがたい。食器を単なる容器と同列に考える愚行に加え、金魚を泳がすとは、食器が不憫でしょうがないし、金魚は金魚で可哀想である。食器にいれて許容できるのは生物だけで、これはなまものと読む方の生物であって決して生けるものの意味ではないせいぶつであり、静物は入れても生物は入れるべきではないのでややこしいが、ともかく呼吸をして、代謝があって、なにものかを排泄分泌する機能が働いている状態のものを食器に盛ることに関して、私は反対の立場をとる。この屋敷での食器の扱いは憤慨モノであり、見ていて気分の良い光景ではない。
縁側に出ると丁度軒下に収まるように大きな壺が置かれていて、中を覗くと、鮒と見まがうほどふくふくと育った金魚が一匹、ぽかんと浮かんでいる。洞のような目をしていて、訳も分からずいよいよ恐ろしくなった。
帰り際、玄関先まで彼の祖父は見送りに来てくれたが、その手に包まれていたのが件の江戸切子であった。彼は赤い小さな金魚をお猪口に離して、台湾の民芸品にこういうのがあってね。江戸切子を地べたに置き、上り縁に腰掛けてそれを眺めた。
外からの太陽光を受け、江戸切子の下には青い影が落ちている。それを恍惚と眺めている。君はこの綺麗さがわかるかい。さぁ、私にはさっぱり、食器はそういうものではないでしょう。しかし食器だろうが水槽だろうが往々にして物入れには変わりない。死んだ魚が入っているか、生きた魚が入っているか、魚から抜き取った出汁が入っているか、そんなに変わらないだろう。それは強引が過ぎやしませんか。だが綺麗だとは思わんかね。いえ、私にはさっぱり。
そんな具合でいつまでも開放してもらえない。しまいにはさほど綺麗とは思わず、それどころかこのような小さな生物を食器にしまい込むことに不快感を得ていたが、面倒になって綺麗だと言ってしまった。そう答えた途端、メッタラの祖父は金魚玉にその金魚を詰めて押し付けたのである。金魚玉というのは、風鈴の様なガラス球に網をかけて持ち手としたようなものである。縁日以外で金魚をもらうとは思わなかったし、平生金魚すくいの掬う過程だけを楽しんで、掬った金魚を辞退する私にとっては迷惑千万、全く持って不快そのものである。丁重に辞退して、彼の家の庭池に離した。
そういうわけで、びいどろぎやまん和ガラスと聞くたびに、あの金魚を包有した真っ青な江戸切子を思い出すのである。残念ながら、気分が良いとは言えぬ経験を合わせて、金魚入りの江戸切子ばかりが脳裏にちらつくのである。
とはいえ、年代物のガラス器を食するのは喜悦甚だしい事この上ない。透けた琥珀色に艶めいた徳利のほんのひとかけでもよいから食べることができれば、夏の暑さも何もかもの障害を吹き飛ばし、元気溌剌活発軽快に万事をこなすだろうに。望めど望めど滅多にそんな機会に立ち会えないから、私が食べるのは電気屋の特典で貰った安いガラスコップである。冷やしておくのをすっかり忘れていたために、一丁前に割れた音だけ涼しいそれの破片を口に放りこむ。はっきりとしない酸味と甘味がかえってほろ苦いような心地がした。
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