休日
周囲の人間は到底知りもしないが、私の主食は食器である。今朝は激しい雨が窓にぶつかる音でうんうん唸りながら目を覚ました。テレビをつけると、昼のニュースが既に始まっていて、そういえば近所の小学校の正午の音楽が聞こえた気がする。
本日は休日である。晴れていたら博物館にでも行く気が起きたが、ばさばさと人の家の自転車カバーのナイロンが暴れる音や、がたがたと立て付けの悪い窓が揺れる音を聞くに、どうやら酷い大雨であるようで、出かける気なぞ目を覚ました時になくなった。こうなれば家に篭って、本を読むなり皿を見るなりして過ごす他あるまいや。
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こう雨が酷いと、昔の苦い思い出が脳の底からありありと、瞼の裏に投影される。私は鑑定士として、そこそこ長年柳家骨董店に勤めて来た。実は長年と言っても、骨董店で働く前は運送屋の見習いをしていた。運送屋をやめた理由は、思い出すだけでも恥ずかしく後ろめたい話であるが、いつまでも鮮明に覚えているので困る。
当時私はまだ学生で、私の他に見習いが二人、片方は身長の高い女の子で、もう片方はメガネで眉の短い男であった。
その日は地域の歴史資料館のようなところの常設展の並べ替えを手伝っていた。ばちゃばちゃと雨が降る倉庫入口まで、移動してきた作品を濡らさぬよう細心の注意を払って運ぶ仕事である。そこで、メガネの方がヘマをした。その地域には有名な窯元があり、資料館にもたくさんの窯元肝煎の作が並んでいた。中でも目を引く真っ白い大杯を学芸員が誰かが抱えたところに、メガネの方がぶつかり、無残にも大杯は割れてしまったという経緯である。食道楽の一環として私はそこの窯元集落の食器を愛食していたために、大杯の作者が如何に優れた人物であるか知っていたので、1度だけ欠片ひとつでも舐めてみたかった。
そういう裏話もあって、ひと舐めだけしてあとで返却する予定で、手のひらよりもなお小さい欠片を拾い、ポケットに入れた。
だがもちろん、美味しいものを食べるのが、たったのひと舐めで終わるはずがない。
そしてメガネの方が当然叱られ、顔面蒼白意気消沈と周囲がしている中、私は欠片を全て食べてしまった。ホコリと唾避けのマスクの下で、もごもごとやっていた。
その味ときたら、簡単に比べ物も見つからないほどで、ざらりと舌に触れたかと思えば次の瞬間ホロホロと崩れ、すぐに口の中でなくなってしまう。なくなる時に舌の根の方で深く香りのいい苦味が生じて、あとにはその味が癖になるような、そういうおいしさであったのをこの舌が覚えている。
その後、賠償金やら何やらで運送屋の経営が傾き、到底見習いなど置いている余裕がないのでやめた。私が欠片を食べてなくしたことは誰も気づかず終わった。今でこそ時効だから言えるけれど、大杯の修繕が終わらなかったのは私のせいなのであった。
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博物館といえば、こんな話もある。
地元の博物館に、十数年前から入館拒否を続けられている。私に言わせてみれば、本来食うべき皿がいつまでも飾られているのは見るに堪えない。唾液腺が鳴り止まない。そんな調子で皿ばかり凝視していたためか__博物館で展示品を見るのは普通の事のはずだが、どうにも異様な光景であったようで、職員が怖がると相談を受けた。
もちろん見ているだけだと弁明はしたものの、運悪く言葉選びを間違え、相談にきた職員の気に触ってしまったようでそれ以来出禁になってしまった。
あの博物館には美味そうな皿が多すぎた。惜しいことをしたと今でも思うが、せっかく私を出禁にして安心を得ている職員がいると思う度に、行くのが憚られる。
もっとも、現在の館長は当時とは別の人で、きっとこの件は知らないだろうから、博物館に行ってもバレやしないのではないかとも思っている。
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かつての博物館での出来事に思いを馳せていると、突如インターホンの呼び鈴がびりびりと鼓膜にぶつかった。この狭い部屋に訪れるのは大概大家かお隣さんか、訪問販売か、メッタラである。
ビーズクッションに預けていた腰を重々しく上げ玄関扉を開けると、彼は雨の中傘も差さずにやってきたかの如く髪を濡らし、しかしながら彼の手には濡れた傘が持たれていたが、ともかく部屋をびちゃびちゃにされる前にタオルを渡すはめになった。
果たして、友人メッタラの来訪である。
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やや、ご無沙汰久しぶりだな。旅行に行っていてね、そう、土産を渡しに来たんだ。いや、土砂降りだからやめようかと思ったんだがね、昨日寝る前に、そうだ、明日渡しに行かなくてはって決めてしまったものはさ、土砂降りだろうがなんだろうが
来ないわけにはいかなかったんだよ。
そそ、旅行ってのはね、旅行って言うより出張って言う方が近いだろうけど、まぁぼくは随分前に会社を辞めてね、個人で言ったからやはり旅行と言うべきかもしれないが、でも旅行って言うには仕事臭すぎる旅行だったんだ。それも、国内じゃなくて、海外だぜ、それも3ヶ月ぐらい。それでね、色々回ったんだけど、ほらきみって妙に皿とか茶器とか好きじゃないか。だから見つけた時に、これしかないって思って買ってきたってわけだ。いいだろう?中に金魚が入ってて、なんだか有名な工芸品なんだってさ。
あぁ、それより聞いてくれよ。きみは海外どころか一回居ついたところにずーんと居座ってしまうたちだから、きっと知らないと思うんだがね。空港の入国だか出国高の時って、顔を見てハンコを押してもらうシステム、ほら、名前は知らないけどさ、あるだろう?ぼく、今回そこら中ぐるぐる回ったからさ、いろんな国のハンコを押してもらうの、結構楽しみにしてたんだぜ?なのに、なんだかSF映画とかよくある、人が暮らす巨大宇宙船の中の、公衆トイレの手洗い場みたいな、とにかく鏡付きのナントモ未来的なつやつやした機械が置いてあってさ、そう、鏡に映ってる顔を読み込んで電子印を押すんだ。人間の目には見えないやつ。これに出会ったぼくの悲しみがわかるか?確かにSF映画の世界はロマンだよ。ロマンてんこ盛りの大盛りだとも!それ抜きにしたって、人の手も減るし、回りは早いし__実際全然待たされなかったからね、いいんだろうけどさ!でもパスポートのハンコはあのアナログ感がいいんだよ。博物館の入場券の半券だって、なんとなく捨てずに残してしまうし__そもそもあれは、残されるためにデザインに凝ってるようなものじゃないか!そう考えると思い出が薄れるっていうか、とにかくなんだか脳内でノスタルジーのために組まれてきた理想像みたいなものが勝手に壊されたような気がしてきてしまって悲しかったんだ。
まま、どうせそのうち全部SFみたいに、つやつやした流線形のプラスチック外装ばかりになって、何でもかんでも通信技術でどっちゃらこっちゃら言って、そりゃ便利な世の中になるんだろうよ。悔しいからいっそぼくだけでも抵抗してやろうかね。アンチ情報化、アンチ高度化、アンチ自動化。時代の逆行バンザイ!なんて言ってね。きみもどうだね、アンチ未来化運動。AIロボットに対するラダイト運動。ノスタルジー保護活動とか。
はは、おかしいな、想像したら笑えないかい?町中みんな何でも翻訳できる機械とか、眼鏡型の何かとか、そういう未来的道具を持って歩いてる中で、ぼくだけが壁掛け固定電話。鳩を飛ばしてやりとりしたっていいぜ。部屋の半分を鳩小屋にするんだ。世間は流線形の勝手に走る電気車に乗ってる中で、ぼくだけ煙まみれでクラシックカー。21世紀のモダン・ボーイになってやったら、やつら、どんな顔をするだろうね。トンカチ片手にロボットを殴って回る。ほら、ああいうのって釘じゃなくてネジで止めてあるだろう?きっとトンカチを見たことがないはずだからさ、サイズ違いのドライバーを上からトンカチで打って、そう、ドライバーでネジを外すような顔して全部のネジ穴をつぶしてやるんだ。普通に殴って壊すなんて合理的なことやらないぞ、なんてったって、アンチ未来家の原則はとことん未来化の逆でなくちゃならないからね。不変・非合理・非科学的が信条だ。
ええ、馬鹿げているとも、知っているさ。でも面白くないか、未来にそれ自体の逆行を期待するんだ。あきれた矛盾っぷりだろう?ぼくは好きだなぁ、説明を求められると難しいけど、何も生まない感じがいいと思うんだよ。
なな、そういや、きみ、今年は実家に帰らないのか?ぼく、毎年帰るたびにきみのお母サマに挨拶されるんだよ。まぁ、あそこは狭いからね。それとも今年もきみの居座り癖は治らないのかい。まぁ、帰郷したら連絡くれよ、一緒にどっか遊びに行こうぜ。
へへへ、じゃ、ぼくはそろそろお暇しようかな。だってほら、いい感じに雨が弱まったような感じの音がしないかい。うん。まぁ、帰ろうと思ったからどちらにしろ帰るよ。お邪魔しましたね。それじゃ、また来ようと思ったら来るよ。
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こういう風にメッタラは来て帰っていった。彼はこういう、永遠に自分の好きなようにしゃべって、好きなように帰るのである。元来私は話すのが得意ではないくせに、どこかの会話に籍を置きたいという、ゴメーワクな性分であるから、自分の好きなだけしゃべり続けるメッタラとは出会って以来やたらとウマが合ったのだ。
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