皿食う男

八京間

生活

 誰一人として到底知る由もないが、私の主食は食器である。朝食に丸皿を2枚食べ、昼食は平皿一枚食べ、小腹が空いたら小皿を、ちょうど煎餅のように食べて、夕飯には角皿と小鉢を食べる。晩酌には徳利を肴にそのまま酒を飲む。もっとも、人と食事せざるを得ない時は皿は食わない。もったいないが、腹の足しにもならない世間一般の食べ物のために金を払い、空腹を我慢しながら帰宅するのだ。そういう日は2倍に費用がかかるうえ、それ抜きにしてもこのような生活を続けていては食費が馬鹿にならない。破産趣味の者は是非とも真似することを推奨する。

 そうでない者は働かなくてはならない。そういうわけで私は仕事に出る。

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 仕事場は駅前の商店街の端の方にあり、家は商店街の裏手に入った辺鄙なところにあるので、良い頃合いになったら歩いていけば良い。私はそこで、鑑定士として働いている。

 けれども私は雇われの身であり、店主は小柄で、姿勢と気前のいい爺さんである。値段のつかない品を持ち帰らせてくれるうえ、仕事といえども、1度は食べてみたい美味しそうなあんな皿こんな器をお目にかかることができるので、この上なく良い職場である。指折り五年務めているが、私と店主以外の従業員を見たことがない。小さい店である。

 そうこうしているうちに、例の良い頃合いになったので、隣町の量販店で二千円ぽっきりで売っていた合皮の革靴を履いて出かける。

 これ以外の靴は、学生の頃から履いている浅いスニーカーと、法事のための真っ黒い靴しかないので、どちらも仕事履にする訳には行かず、仕様がなくこれを履き続けている。 ことに履き道楽ということもないから、こんな調子で十分である。

 玄関の鍵を閉めて、戸が開かぬことをガチャガチャとやって確認した。

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 我が自宅は学生の頃から変わらぬアパートの一室で、両親は未だ健在であるが、父の建てた夢のマイホームに夫婦二人で住んでおり、つまりこの部屋に私は1人で暮らしている。

 とりわけ大きなアパートである訳でもなくて、むしろ小さい方であり、部屋数は少なく、昔の家であるから、階段が急で共同玄関の土間が広い。アパートというより長屋や"めぞん"と言う風体だ。商店街の裏手の、そこに住んでいる人か迷子かあるいは猫ぐらいしか通らない路地に面しているので、夜の暗がりが一層怖い。そういう訳で、門灯だけ煌々とつけて出かける。この電気代は共益費だ。

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 家から出て歩き出すのにこれだけかかるから、職場に着くまでも一瞬では済まない。

 ようやく表の商店街に出る。この時間はまだ朝に近いためか閑散としていて、アーケードの中途半端な暗さが余計寂しく感じる。店の名前が二色で書かれたシャッターがどこもかしこも閉まっていて、新聞の広告欄のように平行に並んでいる。それほど長い訳でもない商店街は、三、四分ほど早歩きすれば入口から出口、あるいは出口から入口まで歩ける程である。のんびり足で歩くから、商店街の話はまだ続く。

 商店街といえば、よっぽどのシャッタータウンでない限り、当然のように地元のご夫人に愛されたる洋服屋がある。あそこのマネキンはいつも茶髪のぴったりとしたショートカットの鬘で、伏せた目の部分につけまつ毛が申し訳程度にくっついている。あの店のシャッターはショーウィンドウにはかからないから、夜でも会うことができる。夜中に見ると人のようで恐ろしいかと言えば、肌は銀色で、嫌に体型がすらりとしているおかげで、見間違えるようなことは無いはずだった。

 だったというのだから、間違えたことがあるというわけだ。

 以前同窓会で二軒三軒と居酒屋を周り、結局終電を逃して、商店街の入口にタクシーをつけた折のことである。酔っ払っていたのと、明かりがまばらだったのとで、初めは婦人服屋に泥棒でも入っているのかと錯覚した。

 泥棒だと思い込んでいるのだから、相手が動かないのは私に気づいたからだと思っていて、真夜中だと言うのに、やれ考え直せだの、やれ警察を呼ぶなどと散々に騒ぎ散らした挙句、向かいの文具屋の爺さんが気づき、寝間着姿で箒を持って走りでてきた。

 いち早く爺さんが酔っぱらいの見間違いだと気づき、泥棒を殴るべくして持ってこられた箒は私の頭を叩いて行ったのである。

 思い出すだけで耳まで赤くなるようだから、そこの文具屋には近寄らないようにしている。店主の隙を見計らって走り抜けるのである。きっと気づかれているだろうが。

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 アーケードの端まで出てくると、突然日差しが強くなるので、目を瞑って歩きたくなった。そういう訳にも行かないので、手で目の上にひさしを作って慣れるまで凌いだ。

 さてこの街の駅はこれまた随分陳腐で、駅ビルなどない、全くの平屋建ての駅である。特急が通るような大きい駅ではないし、すぐ二、三先の駅がどこでも行けるような大きな駅であるから、ちょうど間の街の駅という風体である。

 その駅の正面の、片方の入口は商店街に、もう片方の入口は駅前通りにあるという、つまり角の建物が私の職場である。

 店主の爺さんは柳といい、店の名前は柳家骨董店である。音だけ聞くと「屋」と「店」が意味上重複しているように見えるが、柳さん家の骨董店という訳だから実際は重複はない。

 柳老人は小柄で、額にタオルを巻き作務衣を着込んだ、陶芸家のような風体をしている。その姿のままで接客も鑑定も買取にも出かけるので、よく人に覚えられ、しばしば街で声をかけられているような人だ。

 従業員口に入るなりプラスチックのジョウロを投げ渡され、店前の花壇の水やりを命じられた。

 さて水やりというのは大変な作業である。

 店の前の花壇は生垣といった風体ではなく、幾つものプランターやら焼き物やらに、様々な植物がばらばらに植えられているので、例えばホースで水やりするようなことをするとあっという間に溢れてしまう。然って、一鉢一鉢丁寧に水やりするので、結構な面倒である。その上、繰り返しばかりの退屈な作業である。こうも退屈なことは語るに値しない。試しに語れば退屈さがよくわかるだろう。

 まず、鉢に植えられている植物の葉をかき分けて土が見えるようにする。見えた土に、ジョウロで水を注ぐ。土が色を変える程度に。隣の鉢に全く同じ作業をする。水をやっているのに、私は退屈で干からびるようだ。

 こういう時のために、手短にではあるが回想を用意しているのである。いつでも回想ばかりであったのに、性懲りも無く、また回想をするのである。

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 高校以来の友人で、メッタラという奴がいる。本名は矢田頼次ヤタライジという。ヤタラヤタラとヤタラメッタラ呼ばれていたら、転じていつの間にかメッタラだけが残った。不思議にもムヤミではなかった。主食が皿の私が言うのもなんだが、かなりの偏食家で、ヤタラメッタラ昔からスーパーの惣菜寿司と、でろでろに甘い卵焼きばかり食べている。弁当のタッパーに切りもせず卵焼き一本が詰まっている様子を見たことがあるか。それを見た時、さすがに私はメッタラを問い詰めるのを我慢できなかった。その問い詰め以降は、それでも多いが弁当箱の半分が卵焼きだった。それでも毎日見た。親鶏なら涙目だろうか。

 悪い奴でもないが良い奴ではない。しかし悪友と呼ぶに相応しいぐらいは仲が良いのだ。随分長く会っていないが、果たして元気にやっているのだろうか。

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 花壇の端から端まで水をやり終えたので、ジョウロを所定の位置にふざけて恭しく戻す。

 今度は店内の掃除である。掃除は上から下に向かってするのが鉄則と信じて疑わないから、今では珍しい羽根ばたきを使って、棚という棚、壺という壺、皿という皿の合間のホコリを落としていく。茶色の羽根ばたきは三毛猫の尻尾をガラスコップの側面から見たような太いまだらで、わさわさとしている。

 本当に高くて価値のあるものの多くは、店の裏に箱に閉まって保管しているので、ここいらに並んでいるのは気の飛びそうな値段ではないけれど、それでも一二万とか数千とかするので、決して落とさぬよう、割れたら割れたで皿なら良いが、一社会を構成する労働者として真摯な働きを後ろの柳老人から求められているので、神経を使うのである。

 柳老人は客がいなければずっと座って新聞を捲っている。新しい新聞ではなくて、食器やガラスペンやらの割れ物が売れた際に包むための古新聞である。退屈しのぎなのだろう。

 埃を落とし終えたら、先が三角形になった箒で床を掃く。平日の午前中でもあり、なかなか客はやってこないので、誰の足も気にしない。骨董店の床の正方形のタイルの並びに沿って、なるべく溝に落とさないよう砂を掃く。箒の先が柔らかいので、溝に入ったのが掻き出し辛いのがここのところ気になるので、本当は買い換えて欲しい。もしT字型の箒であれば、学生の頃の放課後の掃除にちょうどそっくりな様子である。

 カーテンを括って窓を拭いて、ようやく掃除を終えたが、それでも客は来なかった。

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 時刻は正午を回って、柳老人は昼食を摂ると言って規則正しく店の奥に引っ込んだ。彼が午前中していたことといえば、例の古新聞を捲ることと、時折私に小言を言ったことである。あまりに静かであるから、近所の学校か公園の、12時きっかりの音楽が流れ終わるのが惜しかった。店内BGMもなければラジオを流すわけでもなく、骨董の蓄音機を使うこともなく、ただ古新聞を捲る乾いた音と、私がわざと目立つように足音を立てて歩くのと、客商売の時には出ない音程の声で柳老人がそれを咎めるくらいしか音がしないので、柳老人がいない今、ともすれば眠ってしまいそうな静けさである。

 一社会人として居眠りが良くないことはわかっているので、私は隠れて食事を摂る。一社会人はちょうど枕詞と同じであり、隠れて食事を摂るのも褒められた行為でないことはわかっているが、この場合は目を瞑っていただきたい。なにせ食器を食べるのだから。

 新聞紙で包まれたお弁当を開く。オムレツを載せるぐらいの大きさの白い平皿が今日の昼食である。勿論、この大きさに直接齧り付くのはお行儀が悪いから、もう一度新聞紙で包んで割ることにする。

 文机の上に勢いよく叩きつけると、がしゃりと美味しそうに鈍い音がした。新聞紙の上から触ってみるが、大きく二、三片に割れただけのようであるから、その後も何度か机に叩きつけて割った。

 酷く慌てた様子で、奥から柳老人がしゃかしゃかと走り出て来た。机に向かって再度振り被ろうと両手を挙げたままの私は、眼前に柳老人のふわふわした産毛のような白髪を見た。何をやっているのかね。皿を割ったのです。何を割ったんだ。だから皿です。どの皿だ。私が家から持ってきた皿です。なぜ家から皿を持ってきた、それとも嘘か。

 ぜいぜい言う柳老人に質問責めに会って、私はようやく私の失態を認識したのだった。割れ物まみれの古道具店で何かが割れた音がすれば、店主が走って寄ってこない筈がないのである。

 嘘ではありません、値のつかないものと一緒に処分してもらおうと思いまして。それならわざわざ割らなくてもいいじゃないか。そういう都合があったのですよ、ほら、ティッシュの箱を捨てる時は畳むか千切るかするでしょう、そういう風に、かさばらないようにするのが良いかと思いまして。割らなくても皿なんぞかさばらないだろう。割ってしまったものは割ってしまったのですから。

 新聞紙を開くと、概してちょうどふたつの指で摘める大きさの破片に細かく割れていた。なんとも食べやすそうな、理想的な割れ方である。

 立派な割れようだね。わかりますか。処分すると言うなら、ついでに奥に持っていくよ。いや、私が自分でやりますよ。まぁ、今度からは割らなくて良いからね。

 そう言って柳老人は安堵の吐息を零し、割れた皿を、また新聞紙に包んで持って行ってしまった。私は事前に皿を割って持ってくることをようやく学び、代償に昼食を食いっぱぐれた。

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 それからの仕事は大して特筆すべきものは無い。ただ私が空腹と、柳老人の懐疑的視線とお小言に耐えながら粛々と働いだだけである。午後は数人客が訪れたが、1度でも見た事のある人間はいなかった。知らない人間はぼやぼやとあやふやな顔をしているように見えるから、既に記憶の中には印象すら残っていない。閉店時刻を過ぎ、カーテンを閉めて 、先に奥へ引っ込んで帳簿をつけている柳老人に挨拶して、一刻も早く空腹を満たしたいという思いだけで短い商店街を走って帰った。そうでもしなければ腹の虫がおさまらない。怒りでなく空腹で、いつまでたってもぐうぐう鳴いている。

 3分後にはもうアパートの玄関に着き、がちゃがちゃと鍵を開け、部屋の明かりを点ける。

 一目散に食器棚へ向かって、夕飯の食器を選んだ。焼いた秋刀魚を載せるような長方形の角皿と、真っ白い手のひら大の小鉢を少し乱暴に置いた。グラスに水を注ぎ、席に着く。

 口に入れた瞬間、小鉢はホロホロとほどけてほのかな甘みが広がった 。すべすべした陶器の表面が唇に当たって、ひんやりと心地良い冷たさを感じる。あっという間に食べきってしまって、角皿に手を伸ばした。微かに苦くて噛めば噛むほど鼻から匂いが抜けていく。ここまで来てやっと落ち着いて、全身の力が抜けるような安心感を得た。片手でテレビの電源を入れて、チャンネルを天気予報に合わせる。週間予報では傘のマークがふよふよと踊っていた。

 明日は休日である。その話はまた次回。

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