13

 天井から響く犯人の声をBGM代わりに、ヤスカちゃんを気遣う榊さんとミリアムの声がわずかに聞こえた。

 横向きで倒れたままのわたしには、誰も駆けつけてはくれなかった。もうわたしの右腕そばで、少なくとも密室ここを出るまでのあいだは、人間ひとのぬくもりを感じられないだろう。

 涙がこぼれ、すべての力が失われてゆく。

 犯人からの要求は、歯を抜くことだった。

 それがどうした、だからなに?

 もう、どうでもいい。犠牲者を勝手に選んで、勝手にそいつから抜いてしまえ。

 今のわたしは、生き残る意思も決断する思考も放棄していた。


「ウフフ、こっちが怪我をしているのに……みんな薄情者はくじょうものよね」


 聞き覚えのない声の主が、壁にぶつけて膨らんだおでこにそっと触れる。

 指が冷たくて気持ちいい。それに、どこか懐かしい感触でもあった。


「お母さん……」


 思わずそうつぶやいてから、ハッとする。

 この部屋に閉じ込められているのは、わたしたち五人だけのはずだ。もしほかに誰かいるとすれば、それは──

 声のしたほうへ恐る恐る顔を向けると、目を細めて笑いかける女性がそこにいた。


「わたしね、あなたのような人間ひとを待っていたのよ。うふふ……黙ってたってダメ。聞こえてるんでしょ? わたしの顔を見ているもの。あら? それとも、おしゃべりまでは出来ないのかしら?」


 この女の人は、死んでいる。

 さっきの死霊とは全然違う、綺麗きれいな姿をした幽霊だ。

 待っていたって、いったいなんのこと?


「そろそろカウントダウンが始まるけれど、薄情者たちはあなたを選ぶでしょうね。だって、あなたが原因なんですもの」


 そうだった。今回のペナルティを招いたのは、わたしの暴走だった。

 選ぶもなにも、選択肢はひとつだけじゃないか。


『10……9……8……』


 わたしが選ばれる。

 当然のことかもしれないけれど、釈然としなかった。素直に納得がいかなかった。


「こんなの、ちっともフェアじゃない……」


 身体を起こしながら、独りごつ。

 気がつけば女性の姿は消えていた。


『7……6……』


 片肘で上半身を支えているわたしに、榊さんが近づいてくる。

 無口でありながらも、その目は雄弁に語っていた。

 歯を抜くんだから覚悟しておきなさいよね──わたしには、そう聞こえる。そのまなざしが、コンクリートの床よりも冷たく思えた。


「待ってください、榊さん!」


 みんなから一人離れて立っていた唯織さんが、突然大声で呼び止める。どうやら彼女だけヤスカちゃんのもとへは行かなかったみたいだ。


「……なによ? 身代わりになるつもり?」

「はい」


 なにも迷わず即答した唯織さんが、わたしに微笑をみせてウインクまでする。このタイミングで冗談は許されない。本気なの、唯織さん?


『4……3……』


 唯織さんが、右手親指と人差し指を唇にくわえて前屈みになる。


『2……1……』


 そして、カウント・ゼロ直前で姿勢を戻し、鮮血に染まる歯をよく見えるように頭上高く掲げた。


『…………ペナルティが実行されたので、ゲームを再開する。さあ、隣人を愛すのだ』


 しばらくすると、なにも言わずにきびすを返した榊さんの背中が遠ざかり、それを待っていたかのように、唇から血を滴らせたままの痛々しい姿で唯織さんが目の前まで来てくれて、そのまま片膝を着いてすわった。


「大丈夫かい、加奈ちゃん?」

「わたしは…………わたしよりも、唯織さんこそ歯が……」

「ああ、これね」


 右手のこうで血を拭いつつ、またウインクをくれた直後、抜いた歯をそっと口のなかに入れて親指で押し込み、無邪気に微笑む。


「実は、差し歯・・・なんだ」

「えっ……でも血が出てますよ?」

「唇を噛み切ったのさ。ううっ、まだめっちゃ痛いよぉー」

「あ!」


 指先で涙を拭う真似をしてみせた唯織さんに突然抱きつかれる。

 そしてわたしは、考えた。

 わたしに好意があるから、彼女は助けてくれたのだろうか? それとも、差し歯だからこのペナルティを引き受けただけなのだろうか?

 カップルになれる相手は、もう唯織さんしか残ってはいない。彼女がヤスカちゃんを選んでしまえば、最悪の結末を迎えてしまう。


「唯織さん……ありがとう……」


 密着していた身体を離し、自分から唇を重ねる。一瞬だけ間をおいてから、背中にまわされていた腕の力が強まった。

 このときにねじ込まれた舌からも確信がもてた。

 わたしは大丈夫だ。きっと、生き残れる。

 生まれてはじめて味わう他人の血と唾液。

 わたしはこの味を、死んでも忘れないだろう。


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