わたしの肩が揺さぶられる。

 まだ眠っていたい、どうか起こさないで。

 だけど、もう起きなきゃ。

 だってきょうから、高校の新学期が始まるんだもん。


加奈子かなこおねえちゃん、起きてぇ!」


 人形みたいに小さな指先でわたしの肩に触れているのは、妹の希望ひかり。十二歳以上離れているけど、すでに立派なミニマムサイズのお母さんだ。


「んみゃあ……ひーちゃん、もう少し寝かせてよぉー」

「おねえちゃん、メッなの! おとうさんが朝ごはん作って待っててくれてるの!」


 小さな天使が両手で掛け布団を掴んで激しく揺らす。そろそろ起きなきゃ、今度は全体重を乗せた〝のしかかり攻撃〟が待っている。


「はいはーい……今すぐ行きますよー……」


 薄目を開けて起きあがったわたしの寝癖頭を、ひーちゃんが「早くして!」と元気よく連呼して念入りに手櫛で整えてくれた。

 パジャマもまだ着替えてないし、髪をとかされてもあんまり意味はないけれど、それでも嬉しくて、ギュッて抱きしめてから御礼のキスを何度も頬っぺたにした。

 嫌がるひーちゃんにかまわず、もう一度だけ今度はおでこにキス。ちょっとだけ唾液がついちゃった。


「やーん! ばっちぃー!」

「ええっ? ひーちゃん、ひどいなぁー」


 わたしだけの小さなお母さんは、頬っぺたやおでこを指で何度もぬぐいながら、ドタドタと駆け足で部屋を逃げ出した。


「……フッフッフ♡」


 可愛いわが妹よ、キミは覚えてはいないだろうが、ファーストキスは赤ちゃんの時に奪わせてもらったぞ。もしも反抗期が来たら、その事実を知らせてキミの心をへし折ってやるから覚悟して待っておれよ──




 登校の身支度とトイレを終え、一階のダイニングキッチンに着いた頃には、お父さんもひーちゃんも居なくなっていた。

 遠距離通勤だから、今の時間でもギリギリ間に合うかどうかわからない。きっと、全速力でママチャリをこいで、保育所経由で駅まで向かっているはずだ。

 冷めてしまったフレンチトーストに噛じりつきながら、お父さんのそんな慌ただしい様子を想像してしまい、思わず笑顔になる。


 元々病弱だったお母さんは、ひーちゃんを産んですぐに亡くなってしまった。

 当時はこの郊外の一軒家に引っ越してきたばかりで、お母さんが退院したら新しい家族四人でしあわせに暮らしていくはずだった。だけど……それなのに……あの時ほど、自分の運命や神様を呪ったことはない。

 それから毎日が本当に大変だった。

 わたしもお父さんも慣れない家事やひーちゃんのお世話にてんてこ舞いで、中学生時代は夕飯のメニューを考えたり育児のことで頭がもう……なにもかもが、わたしのキャパを超えまくっている状態で、宿題や受験勉強なんてマジで無理だった。

 それでも、志望校に進学できたのは奇跡としか言いようがない。きっと天国のお母さんが助けてくれたんだって、今でも信じてるし、実際にそのはずだ。


 端っこがカリカリに焼け焦げたベーコンエッグを箸で突っつく。

 卵の黄身がとろけ出してケチャップソースと混じり合い、白いお皿の見込みに勢いよく流れていった。


「もう! まわりは黒焦げなのに、どうして半熟なのよ……おバカ」


 平日の朝食はずっと、お父さんが作ってくれていた。

 それにもかかわらず、料理の腕前はなかなか上達してくれなくて、このあいだの鮭の塩焼きなんかは、生焼けだったから電子レンジで再加熱して食べた。


 でも…………


 お父さん、いつもありがとう。


 まだ恥ずかしくて直接は言えないけれど、心から感謝しています。




 朝食の後片付けを済ませてから、玄関に置いておいた黒いリュックサックを背負う。

 通学用に大きめのサイズを買ったけど、中身がごちゃごちゃしちゃうのが悩みの種だ。つぎに買い替えるなら、小物を仕分けられるヤツを選びたいかな。

 なんてことを考えつつ、スニーカーを履き終えて立ちあがる。


「お母さん、いってきます!」


 きょうも大きな声で出発の挨拶。

 不思議な話だけど、わたしにはたまに返事が聞こえるし、笑顔で送りだしてくれるお母さんの姿だって見える。

 もちろん、家族やほかの誰にも話したことはない。もしも人に話したら、この素敵な現象が、魔法が解けるように消えてなくなってしまうんじゃないかなって、そう思っているから。

 でも、きょうはなぜか、お母さんの顔がどこか不安気な表情のように見えてしまった。


(いったいどうしたんだろう……?)


 とにかくわたしは、いつもどおりお母さんに笑顔で手を振ってから、玄関のドアを開けた。


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