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「でも、よかったな、って思うこともたくさんあるよ。勉強とか部活とかを通じて友達ができたり、ありきたりなファストフードでも友達と一緒に食べれば案外いけるって発見ができたり。そんなに旅行には行けなかったけど、お出かけした日のことはよく覚えてる。日本文学や世界文学もコンプリートなんて夢のまた夢で結局ほとんど読まなかったけど、その代わりにいくつかの小説は何回も読み返すくらいに思い入れが深くなったものもあった。人間関係のいろんなことにも悩んだりしたけど、失敗したことからは、次はもう少しうまくやろう、って前向きな気持ちになれた。おばあちゃんの駄菓子屋でお手伝いさせてもらって、今では本当に良かったと思ってる。あのころのガキんちょがこんなに大きくなるなんて、夢にも思ってなかったから」
「……アキねーちゃんはさ。写真とか、撮る?」
「カメラは持ってないけど、スマホで撮ることはあるよ」
「オレ、アキねーちゃんがどんな写真を撮るのか見てみたい。世界がどんな風に見えているのか、どんな風に世界を切り取るのか」
「わたしはどうすればいいのかな」
「LINE、交換しない? オレもスマホ持ってるから、写真を送れる。何を見て感動するのか、どんな風景に心を打たれるのか。お互いの生活の中で見つけたものを、伝え合わないか」
「ん。いいよ」
「え、いいの?」
「なに言ってんの、よーすけから言い出したことじゃない。スマホ出して」
「あ、うん」
「……ほい、交換できたよ。これで写真を送り合えるね」
「うん……」
「でも、とびっきりよく撮れた写真は、簡単に送っちゃダメだからね」
「……どうして?」
「とびっきりの一枚は、よーすけが心から見せたいと思う人に、見せてあげなさい」
明くる早朝、陽介は小型のデジカメを片手に飾利川沿いの土手を歩いている。
河川敷の公園でアキと別れたのは昨日の夕暮れ時だった。夕日を背に土手を去るアキの背中は胸の奥に保存されている。後になってスマホで撮ればよかったと悔しがったが、撮らなくてよかったとすぐに思い直す。陽介には、写真を撮る理由ができた。世界から、あの夕方よりも心に迫る光景を切り取ること。陽介にとって、あの背中ほど胸を締め付けるものはこの世界のどこにも存在しないような気がした。しかしそこには大切な感情が抜け落ちている。喜び、だ。あの光景を瞼に思い浮かべるとさまざまな感情が体の中を駆け巡る。しかし、喜びだけは、いくら探してもどこにも見当たらないのだった。
朝の早い時間帯には、ランニングや散歩をする人をちらほら見かける。今朝の陽介はその中の一人だった。特にあてもなく土手を歩き、コンクリートの階段から河川敷に下りる。歩道をゆっくり時間をかけて進む。河川敷の公園に来るのはいつも午後で、夕方以降が多かった。明け方の公園は陽介にとって新鮮だった。光の加減ひとつでまるで表情が違う。「清掃事業」専用の場所として割り切っていたところもあり、歩きながらしみじみと思いをはせるなんてことはこれまでに覚えがないことだった。後ろ暗い目的で河川敷に立ち入っていた陽介にとって、通行人は邪魔な存在でしかなかった。いつから自分がそのような思いを持つようになってしまったのかと考えると、陽介の口からはため息が漏れる。
陽介の足は自然と橋の下に向かった。規則的に並ぶ橋脚が向こう岸まで対になって続いているのが見える。歩道から一段下りた場所からは、水面に突き出している洲に歩いて渡ることが出来る。昨日はこの場所でアキと出会った。この洲は橋の真下に当たり、周囲からは見えづらい。背の高い葦が生い茂る洲に渡ると、草むらの中央に狭く開けたところがある。そこに、昨日はなかった種類のエロ本が大量に捨てられていた。
「…………十八禁のBL本」
陽介は首を横に振り、ため息をつく。これも何かの啓示かもしれない。足を洗ういい機会だ。なにが「清掃事業」だ、クソ野郎。そんなこととは、おさらばだ。
しかしそういえば、なぜアキにこの場所をかぎつけられたのだろうか。と、ここまで考えて苦笑する。アキは犬を連れていた。駄菓子屋の老店主のナツ子が昔から飼っている赤茶毛の柴犬だ。あの犬なら、子どものころ駄菓子屋に通っていた陽介の匂いを覚えていても不思議ではない。犬を散歩させていたところ、犬の反応に連れられて、橋の下の洲まで来た、というのがおおかたのところだろう。文字通り、かぎつけられていたわけだ。 橋の下から出た陽介は河川敷から土手に上る階段を通り、橋の上を歩いて渡る。公園があったのとは反対側の土手の道には、桜並木がまだ固い冬の色をしている。しかし、橋を渡り切り、枝の一つに近づいてみると、ひとつだけ、つぼみを割って咲きかけている桜の花があった。デジカメで撮るかスマホで撮るか、悩んだのちに、陽介はスマホでシャッターを切った。
――とっておきには、まだ早い。
喜ぶ、というのは難しいことなのかもしれない。喜びたい、と思って喜べるものではない。悲しむことや怒ることなども同様ではあるのだが、喜び成分が欠乏している陽介が希求するのは喜びの気持ちである。誰かを喜ばせるのは、もっと難しい。陽介は、アキが喜んでくれればうれしい。だがアキを喜ばせられるような写真を撮るためには、陽介自身が喜ばなければならないような気もする。矛盾している。そもそもオレは、まだアキねーちゃんを喜ばせられると思ってんのか。
「……未練がましいよな」
のみ込み切れない気持ちを喉のあたりに残したまま、陽介はLINEの送信ボタンを押した。
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