3-2
「ア、アキねーちゃん……!?」
葦の草むらから出てきた陽介を待ち構えていたのは、小学生のころからよく通っている駄菓子屋の孫娘だった。駄菓子屋は友達の家の近くにあり、その友人宅に遊びに行くときには十円のガムやアイスキャンデーを買ったものだった。駄菓子屋の老店主はナツ子であり、子どもたちからは「ナッちゃん」と呼ばれている。ナツ子の孫娘はそこでお手伝いさんのようなことを、たまにしている。店主のナツ子が「アキちゃん」と呼ぶ孫娘の名は「アキ子」だろうという勝手な推測から、駄菓子屋に集う小学生たちからは「アキ」あるいは「アキねーちゃん」と呼ばれ親しまれている。
四つ年上のアキは陽介のあこがれだった。陽介が小学生のとき、中学生だったアキは自分が知らないことを何でも知っていた。それにくらべて狭い世界で生きている自分はガキでしかなかった。自分には見えていない世界が見えているアキはまぶしい存在だった。中学生に上がってから部活がはじまり、新しくできた友人たちとの付き合いが増える中で、自然と陽介の足は駄菓子屋から遠ざかっていった。住んでいる家はお互いにあまり遠くはないはずなのだが、生活リズムが違うのか、道端やスーパーなどで偶然出くわすことはほとんどなかった。あったとしても気恥ずかしさがあり、一言二言挨拶を交わす程度でしかなかった。
昔、数人の友達と遊びに出かけた駄菓子屋で初めて見かけたときのアキは中学二年生だったはずだ。四月から三年生に上がる陽介は、当時のアキよりも歳を食ってしまったことになる。自分は、あの頃から少しは成長できたのだろうか。あの頃のアキに、どのくらい追いつけたのだろうか。
さまざまな思い出や感情が、腹の中にエロ本を二冊隠した陽介の脳裏を駆け抜けた。置かれている状況を認めたくなくて現実逃避をしていると言えた。またの名を走馬燈と呼ぶ。
「よーすけ、久しぶりだね。今いくつ? 中三だっけ? そっかー、もうそんなになるのかー。ときが過ぎるのってあっという間だね。そりゃ、よーすけも大きくなるわけだ。で、なんで固まってんの? ……なんでそんなに汗かいてるの? なんでそんなに挙動不審なの……? ……なに、お腹痛いの? ……なにか、服の下に、隠してない……?」
ちがう! これはただ、ええと、なんだ?
慌てふためいた陽介の手が震え、服の隙間からバサバサと音を立てて平穏な日常が崩壊してゆく。パサリと乾いた響きを残し、中のページがあらわになった。時間の概念が死ぬ。顔を見れない。口がパクパクと開閉する。さらば恋心、さらば人生。陽介が「うっそぴょーん!」と叫びながら後ろ向きに川にダイブする寸前、アキが何か言葉を発した。
「よかった、万引きじゃなくて」
「そんなことしないよ……」
二人は缶ジュースをもって河川敷の歩道を歩いている。獲物はもとの場所に返した。
「あんなところに捨ててあるなんて知らなかった。今までも、誰かが捨てたのを拾ってたの?」
「だってほら、子どもが見たらダメなものだし。捨ててあげないと」
「なに言ってんの、よーすけだって子どもでしょ」
「……うん」
「あんたも見ちゃダメ」
「……覚えてたんだ」
「なに?」
「アキねーちゃん、オレの名前、覚えててくれたんだなって」
「悪ガキの名前を忘れるわけがないじゃない」
「ぱっと見ただけでよくわかったよな。しばらく駄菓子屋に行ってないのに」
「面影があるからね。それくらいわかる」
「そうか」
「そうよ」
「大学、受かったんだってな。……おめでとう、ございます」
「あれ、良く知ってるね」
「人づてに聞いてて……駄菓子屋の近くに住んでる知り合いから、アキねーちゃん、大学受かったよって、ナツ子さん……ナッちゃんが言ってたって」
「そうなんだ。うん、合格しました。ありがとう」
「いつ引っ越すの」
「明日」
「え、明日?」
「そう。明日の朝。JRで行く」
「もう引っ越しの準備は全部終わってる?」
「……いやー、実はまだ終わってなくて」
「ダメじゃん」
「大丈夫よ。急いでやれば、なんとかなります。だいたいのことは、なんとかなるものよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんなのよ。よーすけも、もうダメだ、って思うことがあっても、簡単にはあきらめないことね」
「さっきみたいな状況でもか……」
「もうダメだ、って思ってたの?」
「川に飛び込もうと思ってた」
「バカじゃないの」
「そうかもしんない」
「別に犯罪じゃないから。褒められたことじゃないけど。サイアク、とは思った」
「……うわ」
「まぁ、どんな趣味を持とうがヒトの勝手だし。それについてどうのこうの言うつもりはないよ。誰にだって、他人に知られたくない趣味の一つや二つ、あるもんだと思ってるし」
「アキねーちゃんも他人に知られたくない趣味を持ってんの?」
「……そりゃ、ある。つーか詮索すんな」
「ごめん」
「ゆるす。……ところで、四月から中三って言ったっけ。そこの雲岡中よね。高校はどうすんの?」
「わかんない。まだ決めてない。頭よくないから、テキトーに、入れるところに入ると思う」
「ふーん。部活とかはやってんの?」
「写真部」
「へえー。なんだか意外。いろんなところに写真を撮りに行ったりするの?」
「って言っても、使ってるのは安いデジカメだけど。近所の写真が多いよ。遠くても、自転車で行けるところまでの写真しかない」
「今、カメラ持ってる?」
「家に置いてきちゃって……」
「残念。見たかったのに」
「取ってこようか」
「いい。今度帰って来た時に見せて」
「帰ってくるの?」
「夏休みとか春休みとかはこっちに帰るかもしれないよ」
「でもわざわざ会わないだろ」
「わざわざ会う必要もないんじゃない? この辺散歩してれば、その内ばったり鉢合わせるよ」
「でも……」
「よーすけはまだあと三年間はこの街にいるんでしょ? 焦んない焦んない」
「……アキねーちゃんは明日出ていくんだろ。なんか、やり残したこととか、ないのか」
「んー。たくさんあるよ」
「そう、なんだ」
「うん、そう。やり残したことなんか山ほどあるよ。もっと友達と仲良くなっとけばよかったかもとか、もっとここでしか食べられない物を食べときゃよかったとか。川とか山とか、夏休みにもうちょっと楽しんどけばよかったかなとか。けっこう、後悔とかもしてる。勉強だってもっとテキパキやれたかもとか、もっと勉強してから進路を決めたかったなあとか。もっと読書もすればよかった。おばあちゃんのお手伝いももうちょっとうまくやれたかもしれない。両親との関係も、もう少しうまくやれたかもしれない。駄菓子屋に来る子どもたちとも、もう少し遊んであげればよかったかもしれない。かもしれない、かもしれない。かもしれないことばっかりだよ。やり残したこと、ばっかりだよ」
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