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この三年間、サクラとの会話を思い出すことがたびたびあった。もちろんサクラが口にしたセリフをすべて覚えているわけではない。思い出すたびに、細かいところは少しずつ変わっていったかもしれない。ただ、サクラとの会話をする前の自分とその後の自分とでは、心のありようが決定的に変わってしまった、という思いだけは変わることがなかった。あのとき自分は救われたのだ、と思う。別にサクラが神仏の類が化けて出て、入試を前に落ち着かない気持ちでいる自分に啓示をくれた、というわけではない。サクラは間違いなく自分と同い年の少女だった。たまたまあの夜に二人は河川敷の公園で出会ったに過ぎない。決して運命などという大それたものではない。
しかし、あの会話が百合花に及ぼした影響は小さくはなかった。この三年間で自分の思想に影響を及ぼした人物を挙げよと言われれば、百合花はすぐに十人ばかりの名を脳裏に思い浮かべることだろう。サクラはそのうちの一人にすぎない。今となってはサクラのセリフには青臭さがあったとさえ思う。高校に在学していた三年間、サクラの意見をひとつの基準として自分の考えを固めてきたつもりでいる百合花は、サクラに感謝の念をも抱いていた。高校受験をする直前までは、高校卒業後の進路としては指定校推薦制度を利用して東京の女子大に滑り込むつもりでいたが、自分なりにいろいろと調べるうちに生物学に関心を持つようになった。興味のある分野を勉強できる大学に進むことを決め、指定校推薦ではなく一般入試を受験し、みごとに合格したのだった。行きつくところは三年前に思い描いていたのと同じ行き先である東京だが、持つ意味合いは全く違う。東京行きの航路には、あの夜のココアの香りが残っている。
橋の上を通りすぎる風が髪を洗う。大学進学を前にして、故郷の鷹見市に別れを告げに百合花は自転車で廻っている。道順など何も考えずにペダルをこいでいた。当初は、この河川敷の公園に来るつもりはなかった。なぜ来たくなかったのかは自分でもよくわからない。今さらあの日の出来事が消えてなくなるわけでもあるまいに。サクラと再び出会うことがこわいのかもしれない。
あの日から三年が経つ。サクラはどのように成長しているのだろうか。大学に進学するのだろうか、就職するのだろうか。旭井に通っていたからまず進学するのだろう。県外だろうか、東京だろうか。あの日、自分の中にはない世界の捉え方が存在することを知らされた。あれから同じだけの時間が二人の上を過ぎていったはずだが、自分はサクラに追いつくことが出来たのだろうか。それともまだ、見えている世界の違いを思い知らされるのだろうか。今まではそれがこわかったのだと思う。しかし今は、それならそれで、新しい世界を見せてもらいたい、という前向きな気持ちがある。その分だけ、自分は成長できたのだろう。それとも、あるいは。昔はすごいと感じていた人物が、時間を空けて再会してみると、思い込んでいたよりもつまらない人間になっていた、という場合も人生には時たま遭遇する。別にすごくもなんともない人物を、勝手に優れた人格者としてとらえていたり、とか。そのような場合は、再会しない方が両者にとって幸せなのかもしれない。あの少女が実際にはどのような人間になっていようとも、今現在、どのような行動をとっていようとも、百合花にはもはや関わりのないことだった。サクラは道を示してくれた一人の師として、百合花の心の中に生き続けるのだろう。
橋の上から河川敷を見下ろしていた百合花は、あっ、と声をあげた。一瞬、柴犬を連れた一人の女性が、河川敷をつたって橋の下に潜り込んでゆくのが見えた。いそいで橋を渡り切り、自転車を乗り捨てて橋の下を覗き込んだが、人影はひとつも見当たらなかった。歩道から一段低くなったところには背の高い葦が生い茂る洲が広がるばかりで、百合花の視点からは先ほどの人物の姿はない。まさか下に下りているはずもないだろう。あの顔にはおぼろげながら見覚えがあった。しかし三年前に一度暗がりで見たきりで、同じ人物だという確証はない。見まちがえだったのだ、きっと。私たちは、たぶん、二度と会わない。
河川敷の公園から見る対岸には桜並木が遠目に見える。どの木のつぼみもいまだに咲いてはいない。ひとつくらいは咲いていないかと目を凝らしても、やはり桜は咲いていない。この街を出るときまでに、桜を見ることはできるのだろうか。それとも桜は東京で見ることになるのだろうか。あるいは――。
向こうの街では、思いもかけない花に出合えるのかもしれない。
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