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前期試験まで、あと十五時間くらいか。月山女子高校の前期試験は、客観的にも主観的にも百合花の合格は固い。これを乗り越えれば、東京での大学生活は約束されたも同然だ。月山女子高校に入って、三年の一学期までの二年と少しの間、コンスタントに良い成績を収め続けることが出来さえすれば、指定校推薦は難しくない。高校に入った後のことに関しては、百合花は自信があった。しかしそのためにはまず前期入試に合格しなければならない。それに自分は編入試験の当日に体調を崩した前科もある。これ以上の失敗は許されない。
受験の重圧に窒息しそうになっていることを自覚した百合花は、前期試験の前日は一切の受験勉強をしなかった。なにもしないまま時間が過ぎていった。夕方、ふと思い立って外に出た。寒風が首筋をさらい、百合花は思わず身を震わせる。マフラーと手袋を付け直し、とくに目的地もない散歩が始まる。
ゆっくり歩いて辿り着いた先は飾利川の河川敷にある公園だった。土手から公園の敷地を見渡すと、夕暮れの中にぽつぽつと歩く人がいる。公園は川の流れと並行して東西に長く伸びている。近隣住民にとっては格好のウォーキングコースであり、犬を散歩させている人も少なくない。ブームなのか、柴犬が多い印象を受ける。土手を下りて公園に入るのは久しぶりだ。小さいころは遊びに来たりもしたが、中学に上がってからは初めてかもしれない。
馴染みのない場所での居心地の悪さと非日常の興奮を胸の中に同居させたまま、百合花は暖かい飲み物を買うために自販機を探した。せっかく河川敷に下りたのに、自販機は土手の上にあった。急な傾斜のコンクリートの階段を上り、もうすぐで上り切るというときに事件は起きた。
土手の上を歩いて階段の方に向かう、柴犬を連れた少女を百合花は認識していなかった、一方、柴犬を連れた少女の方からも、階段を上る百合花の姿は見えていなかった。土手の地面を上からゼロ段目とすると上から七つ目の段に百合花が足をかけたとき、百合花の頭頂部が土手の地面と同じ水位に達し、六つ目の段に足をかけたときに土手の端から百合花の頭がぴょこんと突き出した。うつむき加減に階段を上っていた百合花が目線をあげると、土手の上には舌をたらした赤茶毛の柴犬の大きな顔面が待ち構えていた。
「う、うわっ!」
沈みかけた夕日が河川敷の公園にこの日最後の明かりを届ける中で、二人分の声が重なった。
「ごめんなさい、ぼーっとしてしまっていて。すぐ足元まで人が登ってきていることに気づけませんでした」
「こちらこそすみません、頭上に注意を払っていなくて」
二人の少女と一匹の柴犬は自販機の照明を受け、そのすぐそばのベンチのそばに影が落ちていた。
「おわびをさせてください。もし転ばせてしまっていたら、擦り傷じゃすまなかったでしょうから」
そう言うと少女はココアとミルクティーを一本ずつ買った。百合花はココアを受け取った。
「ありがとうございます。ちょうどココアを飲みたいと思っていたところでした」
「本当にけがはしていませんか?」
「はい、手袋してましたし。厚着してたからなんともないです」
「ああ、よかった」
「一回でも吠えられてたらヤバかったかも。目の前でしたから」
「たしかに。でもこの子も結構なお歳だから、知らない人に向かって吠えることはあまりないです」
そこまで会話が続いたところで百合花は、自販機の明かりに照らされる目の前の少女が自分と同じくらいの年代だということに気が付いた。二人ともベンチに腰掛け、犬も行儀よく少女の傍らに座っている。明日は入試で、あまりおそくまで散歩をするつもりはなかったが、ココアをごちそうになっていることでもあり、むしろ良い気分転換になると思い、もうすこし少女との会話を楽しむことにした。両親が帰宅する時間までまだ余裕がある。そういえば百合花は少女の名前を聞いていなかった。
「ところで、お名前は?」
「サクラです」
「サクラさん? かわいい名前だね」
「あれ、ひょっとしてボクの名前でしたか?」
「あはっ、そのつもりだったけど」
サクラ、というのはどうやら犬の名前のようだった。
「でも……いいや、サクラ、で。ボク、自分の名前、好きじゃないから」
「ふうん?」
「あなたの名前は?」
「ユリカ。百合の花、でユリカ」
「ユリカ、か。いいな。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、のユリカか」
「百合の花の匂いは好きじゃないけどね」
「ボクは嫌いじゃないけどな。間近でかぐようなことをしなければ、だけど」
「サクラさんは中学生?」
「うん。中三。四月から高校生」
「じゃあ私と同じね、たぶん」
「たぶん?」
「一月の編入、落ちたから。前期も落ちて、三月終わりの後期も落ちるとプータロー」
「そっか……。何言えばいいかわからないけど、頑張って」
「試験は明日」
「明日!?」
「朝十時から」
「明日試験なのに何やってんの!? こんなところで!?」
「大丈夫。親が帰るまでまだ時間あるから」
「そういうことじゃないんだけど……でもまあ、今さらジタバタしたってしょうがないのかな。それに、諦めてるって感じでもないし。自信、あるんでしょ」
「ぶっちゃけ自信はある。模試の判定も良かったし、後期の過去問を解いていてもわからない問題はほとんどないし」
「すごいね。それじゃあ合格間違いなしだ」
「そういうサクラさんは? 入試はないの?」
「うん。中高一貫校だから、高校にはエスカレーター式に上がれる」
「そっか。ひょっとして、旭井?」
「うん」
「……そっかぁー。サクラさん、頭いいんだね」
「別に。そんなことない。中学受験したときの入試の成績が良かっただけ」
「あたしは旭井の高校編入試験を受けた。で、落ちた」
「……そう」
「当日、カゼひいちゃってさ。熱もあって、頭痛もしてて。寒気もあって、震える指でシャーペン動かして。それでも結構、解けたつもりだった。いつもだったらスラスラ解ける問題ばかりだった。でも、だめだった」
「……うん」
「あーあ。なんでなのかな。勉強、頑張ったのにな。あたし、何か悪いことでもしたのかな」
「心当たりはあるの?」
「別に旭井に行きたいわけじゃなかった」
「……どういうこと?」
「県外の大学に行きたいだけだから、あたしは。旭井だったら偏差値高い県外の大学も目指せるでしょ。高校は大学への踏み台」
「偏差値を気にしなければ、どこの高校に行っても県外の大学は目指せるよ」
「あたしはナメられたくないから」
「わかる気がする」
思わず二人から笑みがこぼれる。
「でも、ユリカさん、だいたいみんな、そんな感じだと思うよ。その高校に特別な意味を見出して入る人なんか、そんなにいないんじゃないかな。大学に比べれば、高校のブランドなんてたかが知れてるし。地元で就職するならともかく、いい大学に入るために、高校を選ぶ人は多いと思うよ。少なくとも旭井じゃ、まわりはそんなんばっかり」
「……友達と普段からそんなこと話し合ってるの?」
「そんなことないけど、でも、なんとなく。中学や高校に帰属意識を持ってる友達や先輩も少なくないけど、あの人たちも、本心から、自分の高校が特別だ、って思ってる人はいないんじゃないかな。いるのかな? ボクはその人たちには共感できないな」
「でも旭井って、愛校心が強いって言うじゃん。本当は自分たちの学校はそれほど好きだと思ってないってこと?」
「そうだと思うよ。周りの大人たちが喜ぶから、自分たちの学校が好きな子どもたち、っていうのを演じているだけだと思う。ひょっとしたら、演じていることにも気が付いてないのかもしれない。でも、愛校心と言えるものがあるとして、その愛校心がジャマになったときには、おそらく、ためらわずに捨てることが出来ると思う」
「……そうなのかな。そんな人ばかりでもないんじゃない?」
「かもしれない。でも少なくとも、ボクは何も信じていないから」
「……そう」
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