2-1

 旅立ってしまえば故郷の景色は時間の経過とともに記憶から薄れて行くのだろう。


 東京にある女子大の入学試験をパスし、鷹見市からの出立を六日後に控えた北川百合花は、飾利川下流域を南北に横切るさして大きくはない橋の歩道上にいた。できるだけ通行の邪魔にならないように自転車を歩道の脇に寄せた百合花は東側の欄干に肘をつき、昼下がりの三月の街をぼんやりと眺めていた。


 もうすぐ離れてしまう街の風景を目に焼き付けようと、思い出の場所を自転車で廻っているところだった。何のことはない退屈な地方都市である。しかし生まれてこのかた十八年、市外に住居を移すことなく生きてきた百合花にとっては、この鷹見市こそが人生のステージだった。どこを歩いてもジジババばかりに遭遇する眠たげな街には何度幻滅したことかわからない。若者向けの娯楽は少なく、休日に友人と遊ぶ場所といえばせいぜい映画やカラオケかボーリングが関の山だった。早く大人になって街から出たいと思っていた百合花にとって、高校を卒業した後も地元に残る未来など選択肢にすら上がらなかった。


 東京の女子大に合格し、田舎の暮らしとこれでようやく決別できると喜んだ百合花だったが、友人の中には地元の大学に進学する者も少なからずおり、それらの友人たちとの別れの儀式を済ませてゆくたびに、街を出ることに対する後ろめたさのようなものが心の奥からせり上がってくることに気が付いていた。親しい友人との別れを惜しんでいるのかと自分では思うが、どうやらそれだけではない。つまらない街だが、百合花のドラマは確かにここを舞台に展開していた。


 決して嫌な思い出ばかりではなく、楽しかったことや嬉しかったことも大小合わせれば数えきれないほどある。ひょっとしたら意外と愛着があったのかもしれない。思い出に花を添える役目のうちの幾分かを街の風景が担っているのかもしれない。そう思うと、故郷に別れの挨拶も済ませないまま都会へと脱出することは心にしこりが残るようで気が引けた。やり残したことがあるような気がして、しかしその正体は掴めないまま、百合花はサドルの先が指し示すままに自転車を走らせていた。


 気が付くと、昔通っていた雲岡中学校の近くに来ていた。その中学校から十五分ほど歩いたところにある川沿いの堤防はこのあたりではちょっとした桜の名所で、気候が温暖なこの地方ではあとほんの数日もすればつぼみが開きはじめるはずだ。まだ冬の硬い枝色をしている並木道をくぐり抜け、百合花の自転車は飾利川に架かる橋のたもとに差し掛かった。日差しはすっかり春めいているが、頬を切る風はまだ冷たい。東京行きの飛行機は、満開の桜を見るまで待ってはくれないだろう。


 端の中央に向けてゆるく傾斜がかかる坂道を、両足に力を入れて登ってゆく。やがて下りに差し掛かり、周りを見る余裕が生まれた百合花は眼下に広がる川の流れに目を向け、次いですぐ横にある河川敷の公園を見た。知らないうちにブレーキをかけていた。


 あの場所で百合花が彼女に出合ったのは今から三年前、高校入試が目前に迫る夕暮れ時のことだった。百合花は第一志望の旭井学園高等部の編入試験に失敗し、第二志望の月山女子高校の前期試験を明日に控えていた。今日よりも寒かったことを思い出す、あのときは手袋とマフラーで身を固めていた。自宅から歩いて通える距離にあった公立の雲岡中学校は刺激がなかった。生まれ故郷に早々と見切りをつけた百合花は将来の大学生活に照準を定めた。こんな薄ぼけた田舎で朽ち果てたくはない。高校を卒業したら県外に出よう。就職も考えないことはないが、まだ学生の身分を捨てたくはない。


 学生生活というものに対してある種の幻想とあこがれを持っていた百合花は、大学進学に有利な高校を受験することに決めた。中学三年生のときに目標に掲げた高校は二つで、それが旭井学園高等部と月山女子高校だった。中高一貫校の旭井学園の方は県下第一の進学校で大学受験に特化したカリキュラムが有名だった。一方の月山女子高校は、学力レベルも決して低くはないがそれよりも、東京の有名女子大への指定校推薦枠が設けられていることが特徴だった。勉強が得意だった百合花は旭井学園高等部の編入入試を突破することが期待されたが、一月下旬の試験当日に体調を崩し不本意な結果に終わってしまった。さすがに気が滅入ったが、すぐに三月初めの月山女子高校の前期試験に向けて勉強を再開した。

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