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 甘い。自分の中にある種の感情が存在することを頭の隅では認めながらも、それに正面切って向き合おうとせず、意志も根拠も薄弱な、上辺ばかりの狭隘なプライドで組み上げた俄作りの矢倉の上で「下界は穢れている」などとのたまうようでは、そしてそのことに気が付かないようでは、三原和希の甘さは推して知るべし、である。


 秀一から受け取った紙袋に入っていた一冊のページをめくったその夜、和希の中の何かが音を立てて崩れ落ちた。そしてほぼ時を同じくして、それとはまた別の何かがうなりをあげて屹立してゆくことを和希は止めることが出来なかった。


 この日から三か月後の一学期の期末考査で、和希は成績を落とした。周りの友人たちは意外に思ったが、誰よりも動揺していたのは和希本人だった。成績が下がった原因は和希にとって明らかだった。


 これまでは、真面目、で通してきた和希である。学年トップクラスと言っても差し支えない学業成績を密かに誇りに思っていた和希は、成績を下げてしまったことよりも、雑念に容易に影響を受ける自分の不安定さにショックを受けていた。加えて、「煩悩に翻弄された」というそのこと自体をも素直に受け止められなかった。クラスメイトや部活の仲間たちからは、励まされたり気を遣われたり、学年十位が三十位になったところでそれがどうした、アタシなんか今回もドンケツだぜ、などと笑い飛ばされたりした。周りの反応は総じていえば励まされるか関心が無いかの二つであり、決して悪口を言われることはなかったのだが、和希は孤立感を覚えていた。


 情けないことだが、和希は誰にも相談できなかった。自分が何に振り回されているのか、それをどのように飼いならせばいいのか、「真面目」な和希は誰かに打ち明けることなんてできなかった。県下第一の進学校である旭井学園に通学させてもらえているのも、勉強に打ち込んで、良い大学に進むことを親から期待されているからだ。そのために和希は、両親の実家から一人で離れて、旭井学園から徒歩二十分の距離にある父方の祖母の家に寄宿させてもらっているのだ。当然ながら親にも祖母にも申し訳ない気持ちが立つ。が、しかしそんなことより和希当人にとって一大事なのは制御しきれない煩悩である。


 以来、和希は勉強時間を増やした。宿題は出されたその日に仕上げ、毎日の予習復習も欠かさない。以前にもまして勉強に力を注ぐようになったが、反面、ストレスも抱えることになった。後ろめたい思いをひた隠しにしてこれまでと同じ人間関係を維持するには知らず知らずのうちに心に負荷がかかっていく。和希にとって日々の鬱屈を解消してくれるのが、書籍を通じた目くるめく官能の世界であった。部屋の押入れにしまわれているいかがわしい本は、もはや秀一から受け取ったものだけではない。和希は小遣いをやりくりして、密かに買い加えるようになっていた。犬の散歩をしているときに、この手の書籍を専門に扱う小さな書店をみつけたのだ。


 前の晩に夜更かしをしてしまい、朝の散歩ができなかった日のことで、日が暮れてから帳尻を合わすように夜の散歩に出かけたことがあった。家から十分ほど歩いたところに、いつ見てもシャッターが下りている書店がある。少し入り組んだ路地に建っているその小さな店は、なんとなく人目をはばかるような雰囲気を醸し出していた。


 売りに出されている物件かとも思っていたが、日の明るい内は息をひそめ、夜を迎えてからようやくひっそりと営業を開始する書店だったのだ。近所の小学生の目に触れないようにこのような営業形態を採っているのかもしれない。これは夜中にも「犬の散歩」という大義名分を掲げて外出することが可能な和希にとって好都合だった。本当は夜中に犬を散歩させるのはあまり褒められたものではないのだが、自分のエゴに犬を付き合わせることに対する罪悪感は持ち合わせている。だからこの手はたまにしか使わない。たまにしか使わないが、使うときには使う。和希は、ときおり勉強のために夜更かしをするようになり、ときおり朝の犬の散歩を寝坊のために断念せざるを得なくなり、そしてときおり夜中に思い出したようにカバンを持って犬の散歩に出かけるようになるのである。


 和希は勉学に邁進した。そして学校生活の中で副次的に生じる大小の鬱憤を卓上灯の薄明りの下で解消した。勉強に集中できる環境が整い、再び成績をあげられるはずだった。ところが、十月の中間試験ではさらに順位をおとし、学年五十位代になってしまう。周りも少し心配そうなそぶりを見せ、当の和希はさらに焦る。学年三十位が五十位になったところでナンボのもんじゃ、アタシの後ろにはもう誰一人として残っちゃいないぜ、と笑い飛ばす友人に対しても恥ずかしさがつのり、もう心の中はぐちゃぐちゃだった。悲しいかな、またしても和希は空想の世界に癒しを求めた。和希はますます勉強に力を注ぎ、押入れのダンボール箱はますます充実していった。

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