助太刀

藤野優紀

助太刀

 武蔵野ファイターズ


 この、地域名と安易なチーム名の組み合わせは、僕の父が所属する草野球チームの名称だ。この地域の草野球界では、古参だが弱小チームで名が通っている。

 僕は幼い頃から父が野球をする姿を見てきた。週末の多くは、雑木林に囲まれまたグラウンドで、草野球チームの練習や試合を見ることに費やした。草野球が週末の風景であり、自然と自分も少年野球、高校野球と、野球漬けの生活を送ることになった。






 高校三年生の夏はエースとして、地方大会の決勝まで駒を進めた。試合の組み合わせが、優勝候補同士で潰し合うもので、強豪校でもない自分の高校に有利になったとはいえ、決勝まで勝ち残れたのは、自分の力投によるところが大きかったと、自他共に認めていた。

 決勝ではいつものように快投したものの、相手チームの三人の投手の継投を前に打線が沈黙した。結局、最終回に相手打線につかまり力尽き、甲子園は夢で終わった。






 夏が終わり、プロ野球のドラフトに挑戦したものの、指名の連絡は来なかった。決勝戦で対戦した投手の1人は指名されたというから、甲子園に出るか出ないかは、大きな違いなのだと、再認識させられるとともに、僅かな差が、人生を大きく左右してしまう事実を前に、気持ちは重く暗く沈んでいた。






 そんな矢先のことだった。


「ちょっと助太刀してくれないか?」


 家族で夕飯を囲んでいるときに、いつも明るい父が苦虫を噛み潰したような顔で、歯切れ悪く言った。


「今度の日曜日のアスナロズ戦に、先発で投げて欲しいんだ」


 ますます歯切れが悪くなっていく。

 いままで一度も出てくれと頼まれたことのない草野球の試合に出て欲しいという。

 どうして? と思うのは当たり前だ。

 それを察してか、父は少し言い訳じみた話を始めた。


「今度のアスナロズ戦は、何としてでも勝たなきゃならないんだよ。ホームグラウンドがかかっているからな。なりふり構っていられないんだ」


 今度の試合に負けたら、アスナロズにグラウンドを明け渡さなければならない、ということのようだ。


 この地域では最強の草野球チームである武建アスナロズの代表者は、地元では有名なビルダーの社長で、武蔵野ファイターズのホームグラウンドがある土地を新興住宅地として造成し、売り出したがっているという噂が以前からあった。

 グラウンド周囲の多くは雑木林に覆われているとはいえ、周囲の道路は適度に広く、スーパーやコンビニ、幼稚園や小中学校まで徒歩圏内の、この地区に残る数少ない好立地で、ビルダーからすれば喉から手が出るほど欲しい土地に違いなかった。と同時にこの地域では、古き良き武蔵野の面影を残す唯一の土地でもあった。

 最近、グラウンドと雑木林の手入れをしてくれていた、土地の所有者でもある角井のおじいさんが、体を悪くして入院してからというもの、なんとかその土地を手に入れようと、ビルダーがあの手この手を使っていると噂されていた。今回の一件を聞くと、その噂は相当真実味が強いようだ。


 草野球で高校野球のエースが投げるのは、どうかしていると思うのだが、最近の武蔵野ファイターズの戦績を聞く限り、そうでもしないと、勝負にもならなそうだった。


「相手はなんて言ってるんだよ」


「ちょうどいいんじゃないかって、それぐらいしないと勝負にならないだろうとね」


 ふざけているだろ? そう言われても、同意して頷くのはためらわれた。


「じゃあ、いいよ、ちょうど予定ないし」


 これから大学進学を考えなければならず、大学に行けたからといって、野球が続けられるかどうかも分からないこの状況では、少しでも実戦的な野球ができる機会は、有り難かったのだ。






 試合当日の日曜日は、野球の季節の終わりを告げているかのような肌寒さで、少し風も吹く曇りの日となった。

 子供の頃を懐かしみながら父とベンチ入りしたところ、キャッチャーのゲンさんが少し慌てた様子で話しかけてきた。


「アスナロズの奴らも助っ人を連れてきたんだ」


「そうなのか? そんな話はしてなかったけどな。どんな奴だ?」


「それが、あのドラフト指名の高校球児らしいんだ」


 指を差された相手側のベンチには、決勝戦の相手投手がいた。いつも居るかのように、他の大人たちと談笑している。


「これで互角だな」


 父はちょっと嬉しそうに言った。

 高校球児同士は互角だとしても、チームの戦績からは明らかにこちらの分が悪いはずだ。ゲンさんと顔を見合わせ、苦笑いをするしかなかった。

 あいつとの投げ合いでは負ける気はしないが、このチームではかなりのハンデになる。

 この試合の勝ち負けに拘る必要はないと高をくくっていたのだが、相手を見て俄然と闘志が湧いてきた。負けるわけにはいかないと。






 試合が始まってみると、この試合に参加した全員が予想したであろう展開――投手戦となった。

 軟式のボールは久しぶりに投げるので、試合に出ると決めてからは、投球練習を念入りにしてきたおかげか、違和感は少なく投げ進めることができた。それは相手も同じようで、さながら高校野球の決勝戦のような投げ合いになった。

 六回を投げ合い、お互いランナーを出すことなく、最終回を迎えた。

 これまで、まともにバットに当てたのはドラフト高校球児のみだったので、気負うことなく冷静に投げきった。最終回も三人で抑えることに成功し、最後の攻撃に弾みをつけた。


これで一点でも取れば勝ちだ。


 だからヒットでは駄目だ。後続が打ち取られるのは目に見えているから、ここはホームランしかない。

 そう気合を入れて打席に入った。


 一球目。外側高めのボール。ボールがよく見えている。


 二球目。外側低めにコントロールはされたが、ストライクゾーンからは外れていた。


 ドラフト高校球児には少し疲れがみえていた。普段からそれほど長いイニングを投げていないからかもしれない。


 三球目。甘く入った外側のボールを思いっきり振り抜いた。


 ガツンと球の芯を捉えた音がバットに響き、打ち返した手応えはしっかりとあった。

 しかし、打球はあまり伸びずに左の方に切れていった。


思ったより飛ばないな。


 甘い球を仕留め損なった焦りと、飛距離が意外と出ないことに少し動揺した。


「タイム」


 そう宣言して打席を外す。

 負けたくない。ここで負けたら失うものが多すぎる。すでに失った甲子園、これから失うかもしれない野球、思い出の風景。


ザワザワザワ――


 風で雑木林が大きく揺れた。応援してくれているようにも見える。



――すけだちいたす



 雑木林が風で揺れる中、微かにだが確かに『助太刀』と聞こえた気がした。

 しかし、そのあと何度も素振りをしながら耳を澄ましたが、風と雑木林の枝葉の触れ合う音しか聞こえてこなかった。


 アンパイアに促されて打席に戻った。


 集中だ集中。とにかく集中だ。感覚を研ぎ澄まし、一球、一球、大切にしよう。そう、自らを奮い立たせた。


 四球目。バウンドするほどの低いボールだった。フォークかチェンジアップか。このカウントで投げてくるとは、相手も勝負に拘っているように感じた。


 五球目。ど真ん中のストレートを思いっきり振り抜いた。また左に切れた。


 ボールがバットから外れているわけではないので、あとはタイミングとインパクトさえ合えばホームランにできそうだ。


 もう迷うまい、次で勝負だ。


 六球目をフルスイングした。白球がバットに吸い込まれた次の瞬間には、空高くボールが舞い上がった。

 手応えもボールの上がった角度も、いつもなら間違いなくホームランになる感触だったが、球の伸びが気になり、その場で打球の行く末を見守った。


 球を追いかけていたセンターがこちらを振り向き、落下点に入るのが見えた。


 あー、やっぱり伸びない。


 バットを叩きつけ、ファーストに向かって走り出した。


 そのときだった。


 ゴォーという音とともに一陣の風が白球をさらなる高みへと押し上げたのだ。


 落ちてくるはずのボールが落ちてこない。センターはまた背を向けて追いかけ始めたが、すぐに諦めて見送った。

 そして、大きく揺れる雑木林に白球は吸い込まれるように消えた。


――うおぉーーー


 心身の奥底までも震わせるような雄叫びが、どこからともなく湧いてくる。自分が、父が、チームメイトがみんな叫んでいた。

 それに応えるように、硬く握りしめた右拳を、空に向かって何度も何度も突き挙げた。


 ダイヤモンドをゆっくりと一周して、ホームベースまで返ってくる頃には、武蔵野ファイターズのみんなに囲まれ揉みくちゃにされた。なんとかホームベースを踏むと、あとは身を任せた。


 高校野球の決勝戦では相手の胴上げを黙って見守るしかなかったのが、いまは自分が宙を舞っていた。

 不思議な気分だった。

 ただの草野球の試合だろう、とドラフト高校球児は言うかもしれない。

 それに言い返す言葉はないし、言い返す必要もない。この満ち足りた幸福感の前には、一つの言葉さえもいらなかった。






 ビルダーの新興住宅地計画は暗礁に乗り上げたという。武蔵野ファイターズのジャイアントキリングによって、グラウンドを明け渡す話しはなくなり、また、角井のおじいさんがその知らせを聞いて大喜びしたあと、以前よりずっと元気になり退院したのだ。






 あれ以来、武蔵野ファイターズの月始めの練習日は、雑木林の手入れに当てられることになった。ますます元気になった角井のおじいさんを先頭に、雑木林の手入れは以前にも増して良く行き届くようになった。

 僕は雑木林の近くを通るたびに耳を澄ますようになったのだが、あの時のような声を聞くことはなかった。

 そんな雑木林は今日も、風に吹かれてさんざめきながらも、グラウンドに穏やかな木漏れ日を落としていた。

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助太刀 藤野優紀 @1tose3

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