第04話 勇者、朝風呂を教えられる

 カーテンを開け放した窓の外が、うっすらと明るくなり始めた。密集したビルの谷間からわずかに、白くなり始めた空が見える。


 窓から差し込む夜明け前のわずかな光に反応し、大口を開けて寝こけていたアルフレッドは目を覚ました。目をこすり、外の景色を確かめる。

「むう……もう朝か。すっかり熟睡して夢も見なかった」

 今日はよく寝た。快眠のおかげで気持ち良く起きることができる。アルフレッドはすべすべしたシーツを撫でた。

「ビジホの布団はやはり素晴らしいな。できれば家に持って帰りたいくらいだが……」

 彼の家も一応貴族だから、庶民に比べればよい寝具を使っているが……厚くて暖かいのにすごく軽い、ビジホの布団にはかなわない。

「こんな布団、きっと姫様ミリアだって使ってないぞ? ベッドもグニャグニャとらえどころがない感触なのに、俺の身体をしっかり支えてくれるので宙に浮かんでるみたいだ。何でできているのだろう?」


 残念ながらニッポンの物を、アルフレッドの世界へは持ち帰ることができない。それが可能だったら、神様からもらえる小遣いを貯め込んで布団を買って帰りたいぐらいなんだけど──。

「……いや、布団の前にまずカップラーメンと缶ビールだな」


 たとえ持ち帰り可能だったとしても、アルフレッドに布団代は貯められそうにない。


   ◆


 アルフレッドは勢いよくベッドから飛び降りた。

 魔王討伐の旅で野宿をしている時は、だいたいこれくらいの時間に起きている。太陽が出ている時間帯を無駄にしない為の旅人の常識だ。

 だからアルフレッドも早起きは苦にならないが、まあ都にいる時ならこんな時間に目が覚めても二度寝する。わざわざ夜明けに起きても意味がない。

 そんな彼が今日は敢えて起きるのは、ここが異世界ニッポンだから。


 アルフレッドは窓の外に広がる街並みを見ながら、決意も新たに大きく伸びをした。

「よおし、今日も豪華な朝食モーニングビュッフェに一番乗りするぞぉ!」




 今日は週に一日のみの、ニッポン滞在の朝。

 この時だけ泊まることができるのが、素晴らしいベッドと最高のごちそう食べ放題ビュッフェを提供してくれる高級宿、“ビジネスホテルビジホ”だ。

 もちろん高級(アルフレッド基準)な宿の宿泊費はお安くはない。だが自分の世界の宿ソレとは比べ物にならない布団と朝食もてなしに、滞在費おこづかいの過半を払う価値はある。


「特にあれだ。スクランブルエッグ至高の卵料理は素晴らしい! 今朝も出ているといいがなぁ」

 アルフレッドはあの味を思い出すと、思わず頬が緩んでしまう。それほど好きなんだけど、あの料理だけはビジホ以外で見たことがない。

「どこの居酒屋に入っても無いんだよなあ……きっと高級宿ビジホだけが出すことを許された、特別な料理なのだろうな」

 さもありなん。あんなにたっぷりの卵を使って、火加減にも細心の注意が必要な繊細な料理だ。王侯貴族の為のレシピに違いない。

「急げアルフレッド……今日も宿代の元をキッチリ取らスクランブルエッグを食い尽くさねば!」

 使命感に燃えるアルフレッドは、決意も新たにナイトローブ浴衣を脱ぎ捨てた。


   ◆


「とは言ったものの……」

 エレベーターを降りながら、アルフレッドは腹を撫でて顔をしかめた。今日に限って胃袋のヤツ、ちょっと元気がない。

「しまったな。昨日は楽しく飲み過ぎたか?」

 どうにも胃が重くて食欲が湧いてこない。

「今日の泊まりは蚕棚カプセルじゃないから、できるだけツマミはセーブして腹を埋めないようにしたつもりだったんだが……それに、強い酒はあまり飲んでいないのになあ」

 蚕棚カプセルじゃなくてビジホ泊まりなので、朝食に備えて酒量はセーブしたつもりだった。どうやらそれに失敗したらしい。


 アルフレッドはもたもたした足取りで食堂をめざしながら、昨日の酒を指折って数えてみた。


 まずビール。

 もう一杯ビール。

 軽いところでカルピスサワーと青りんごハイに行って、口が甘ったるくなったところへレモンサワー。

 酸っぱいヤツで舌を締め直したついでにニッポンシュをじんわり味わってから、ウィスキーとかいう薫りがクセになるヤツをストレートで。

 で、なんとなく自分の世界のと比べたくなって赤ワインを試したら……思った通り味が段違いだったので、白のほうも飲んで。

 さすがに飲みすぎたかな? と思ったのでもう一回ニッポンシュを舐めるように飲んで、シメ。

「いやあ、俺の財布でこれだけ飲めるんだからハッピーアワー時間限定一杯百円様々だな。……しかし、なぜもたれているんだろう? 確かに酒は飲んだけど、その代わりツマミは枝豆と焼き鳥だけにしたのになぁ」

 

 空きっ腹にチャンポン呑み。胃が荒れるはずである。




 そんなふうに昨日の反省をしながら、のろのろ歩いていたせいだろうか。

「おや?」 

 アルフレッドが食堂に着いてみたら、すでに一人、食堂が開くのを待っていた。

「珍しいな、こんな時間から」

 アルフレッドは一番に乗り込むためにかなり早くから来ているのだけど、たいていのニッポン人は食堂が開く頃にぞろぞろやってくるものだ。

「ニッポン人は匂いに釣られて起きて来るものだが……早い奴がいるものだ」

 時計は腹時計しか知らないアルフレッドは、ニッポン人が一斉にやってくる理由が分からない。


 アルフレッドが後ろについたら、なんだかまだ眠そうなニッポン人に話しかけられた。

「すみません、食堂はまだ開かないんですかね?」

「え? まだまだ開かないと思うが……」

 そんな事を聞かれても、アルフレッドはここの料理人では無い。

 ただ厨房から全然匂いが漂って来ないのを考えるに、まだ開くまで時間はかかると思う。

 先に待っていたニッポン人はアルフレッドの答えを聞くと、閉まっている食堂の看板を眺めて自分の左腕に巻いた腕輪を覗き込んだ。

「……しまった、一時間早かった」

 時間を間違えていたらしい。そそっかしい男だ。

 その点アルフレッドは一番乗りの為に早すぎると分かって並んでいるので、何の問題も無い。 


 先に並んでいたニッポン人は部屋のほうへ戻り始めた。

「ん? 順番待ちは良いのか?」

「あ、いいっす。もうちょっと寝て来るんで」

「そうか」

 せっかく一番に並んでいたのに、権利を放棄するようだ。

(もったいないな)

 アルフレッドは他人事ながら、彼の忍耐力の無さを惜しいなと思ってしまう。

(食堂へ一番に入る者には、至高の栄冠スクランブルエッグすくい放題が与えられるというのに……)


 だが、勇者はそれを口には出さなかった。

 それもまた、あのニッポン人がよくよく考えたうえでの判断だろう。

(他人でしかない俺が、自分の見方であれこれ言うまい)

 アルフレッドは彼の意思を尊重し、代わりに栄光の先頭ポールポジションを確保した。




 しかし、その時。

 順番繰り上げにホクホクしているアルフレッドの耳に、去っていく彼のおかしな独り言が入って来た。


「朝飯の前に、先に風呂に来るかぁ……」


「……ん?」

 

 ──いま彼は、おかしな事を言わなかったか?

 

 “風呂に来るか”


 ビジホにはそれぞれの部屋に一つずつ、贅沢にも専用風呂がついている。湯の出し方を教えてもらってから、アルフレッドも便利に使っている。

 だけど、今の彼の独り言……。

(自分の部屋に“戻って風呂に入る”ではなく、“行って来る”?)


 まるで、よその風呂へ入りに行くかのような言い回し……。

「すまぬ、ちょっと待ってくれ!」

 アルフレッドは帰ろうとする彼を呼び止めた。


   ◆


 ニッポン式のたっぷりの湯に浸かる風呂は、アルフレッドも大好きだ。

 スーパー銭湯の泳げるほど広い湯舟で、のびのびと温浴するあの気持ち良さは何物にも代えがたい。特にスーパー銭湯に泊まり、あの大風呂に朝から入るのはなんとも言えない気持ち良さだった。

「しかしまさかこのホテル、大浴場が付いているとは……」

 偶然食堂の前で会ったニッポン人が教えてくれた、驚愕の事実。


 “このビジホ、部屋風呂以外に大浴場が付いている”


 思わずアルフレッドは聞き返してしまった。

「マジで!? 本当に!? この宿に大きな風呂が!?」

「え? ええ、そうですよ。だから泊まるところ、ここにしたんすから」




 どこのビジホでも付いているわけではないが、たまにこういうホテルがあるらしい。部屋からタオルを持ってきたアルフレッドが、教えられた場所の扉をおそるおそる開けてみると……。

「おおっ」

 片側の壁に手荷物棚ロッカー

 反対側には大きな鏡と椅子。

 ビジホの一室に、勇者もおなじみの脱衣所が現れた。


 そして脱衣所の隅にある、曇ったガラス戸を開けたら……。

「おおおっ!」

 石のタイルで装飾された湯気立ちこめる空間に、なみなみと湯をたたえた大きな湯舟……。

「大浴場は本当にあった!」

 勇者は幻の黄金郷を見つけた冒険家のように、歓喜と驚きに満ちた叫び声をあげた。




 大浴場と言え、スーパー銭湯に比べればこじんまりしたものだ。だがそれでもこの規模は、部屋の風呂とは比べ物にならない。

「おおお、こんな設備がビジホにあるなんて……!」

 ニッポンで風呂の良さに目覚めたアルフレッドには、夢のような話だ。

「これからはビジホに泊まるなら、大浴場付きか確認しないとな!」

 本業魔王討伐のアレコレは覚えるのが遅いのに、こういう事だけは一発で覚える。それが勇者アルフレッド。


 さっそく備え付けの湯桶で何杯か湯をかぶり、湯舟にそっと入る。

「お、おおお……この、じんわりした熱さが!」

 全身にゾクゾクと鳥肌が立つような感覚が広がる。そして身体の奥までゾワゾワが行ったところで、おもむろに腰を下ろして肩まで浸かると……。

「あ゛ーっ……!」

 アルフレッドの口から、思わず大きなうめき声が漏れる。

「これだよ、これ! たまらないな!」

 この全身を包む熱い湯の、痺れるようなピリピリ来る感触。

 敢えて入浴できるギリギリの熱湯(アルフレッド基準)に浸かる事で、眠気も吹き飛んで曇っていた意識がパッと冴え渡る。

「これだよ……酔いが残っていた身体が、いきなり気分爽快になるこの瞬間!」

 思わず声も漏れるというものだ。


 しばらく熱いのを我慢していて、いい感じの温度に感じるようになったら身体も温まった証拠だ。

「そして十分に身体が茹で上がったら……」

 湯舟から出ると、ホカホカしている全身から湯気が立ち昇った。アルフレッドはそのまま、すぐ横にある小さな湯舟に飛び込む。

「……っひゃー‼」

 さっきのうめきと違い、今度は悲鳴のような叫びが出る。熱い風呂から一気に氷水(アルフレッド基準)に飛び込んだのだ。当然そうなる。

「温まった身体を、水風呂で一気に冷やす! これがまた、たまらん!」

 熱い風呂とは別の意味で、一気に目が覚める感じがする。

 湯に入るとじわじわ覚醒する感じだが、水風呂はいきなり頬を叩かれたかのような暴力的な目覚め方だ。

 そして肌は突然の冷たさに悲鳴を上げているのに、身体の芯は逆に熱を残しているので燃え上がるように熱い……いや、暑い。水風呂に浸かっているのに、顔からは汗が次々と浮き出てくる。

 このルーチンを二度、三度と繰り返す。昨夜の酒でだるかった身体が、生まれ変わったようにシャキッとしてきた。


 深酒の倦怠感には、朝風呂が効く。これもアルフレッドがニッポンに来ていなければ、知ることは無かっただろう。

 そして極端な冷温浴が心臓に悪いことを、勇者は知らない。


   ◆


 思いがけない出会いで、まさかの大浴場を思う存分楽しんだアルフレッド。


 だが充分に満足したところで、ちょっとした違和感をおぼえた。

「あれ? そう言えば、この場所を教えてくれたあの男は?」

 ビジホで大風呂に入れた興奮で忘れていたが、よく考えれば先客がいるはずだった。なのにアルフレッドは一人だ。

 でも、脱衣所の入口にはサンダルスリッパがあったような……。

「……潜ってるのかな?」

 湯舟の中を目を凝らして覗いてみるけど、そんなわけはない。


「いないなあ……ん? 着替え室と別の扉……?」

 よく見たら、さっき入ってきた扉とは別の入口がある。

「なんだ、ここ?」

 アルフレッドは好奇心で、そちらの扉を開けてみた。

「……あ」

 食堂で時間を間違えていた彼は、やっぱりそこにいた。


 ……露天風呂に。


「ビジホに、露天風呂まで付いているだと!?」

 屋内の風呂のさらに半分、六人も入れば埋まるような小さな浴槽だが……そこは本当に露天風呂だった。

 建物の隙間に作ったような空間に、小さな庭まで作ってある。露天風呂を名乗るにはささやかだけど、それでも露天風呂は露天風呂。

 正直ウラガン王宮の風呂より立派な気がする(アルフレッド調べ)。


 スーパー銭湯でアルフレッドが一番好きなのが、何を隠そう露天風呂。

「露天風呂はいい。川と違って寒くないし」

 旅のあいだは川で水浴びしてるけど、あれは冷たいし流れがある。ちょっと勇者の好みと違う。

 内風呂はたっぷり入ったが、露天風呂はまた別だ。アルフレッドもウキウキしながら、屋外の湯舟に沈み込む。

「いいなあ、この空気」

 湯気がこもらないのでのぼせる感じが無い。なにより陽の光が溢れ、肌に風を感じる。風呂でありながら、外。

 これぞ露天風呂の醍醐味。川や内風呂では味わえない、この特別感。

「あー……これだよ、これ!」

 湯をすくい上げて顔にこすりつけ、満足の吐息を漏らしながらアルフレッドは叫んだ。

「やっぱりニッポンの風呂は、最高だ!」




「あの、辺りに響くんでお静かに……」

「すみません」


   ◆


「思いがけず、朝風呂まで堪能してしまった……」

 たっぷり風呂を楽しんで心身ともに生まれ変わったアルフレッドは、そろそろいい香りを漂わせ始めた食堂に戻ってきた。

「やはり風呂はいい……まるで生き返ったようなすがすがしさだ」

 そして素晴らしい大浴場の効果で、心身生き返った胃袋が暴力的に唸っている。

「うむ、胃袋もまるで生まれ変わったように再稼働を始めたぞ! 準備万端でテンションも上がってきた!」

 すっかり本調子に戻った今なら……。


 最高のコンディションで開門された戦場朝食会場に足を踏み入れながら、気合十分に勇者は頷く。

「この感じならスクランブルエッグだけじゃなくて、茹でソーセージも全部いける気がする! よおし、喰うぞぉ!」


 夢の暴飲暴食ビュッフェ無双に想いを馳せて。

 アルフレッドは晴れ晴れとした顔でトレイを手に取った。

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