エルフのバイオリニスト

増田朋美

エルフのバイオリニスト

エルフのバイオリニスト

その日は、良く晴れた日で、しっかりと洗濯物が乾くだろうと、みんな外へそろって洗濯物を干していた。そういうわけで、買い物に行った、杉ちゃんと蘭は、洗濯ものが外へ干してある家は幸せだねえ、とか、そういうことを言って、のんびりと移動していた。

杉ちゃんと蘭が、買い物をし終わって、さて、タクシーに乗って家に帰るか、と、タクシー乗り場に向かったところ、そこにはすでに先客がいた。車いすに乗って、ところどころ白髪の混じった長い髪を腰まで伸ばしている。手の甲には、沖縄のハジチによく似た入れ墨がちらちら見えて、ちょっと怖いなという雰囲気もある、老人であった。一見すると、どこかの暴力団の組長に間違えられそうな風貌だが、けっして悪い人という印象ではなかった。その証拠に、その人の長い髪から、とがった耳が、見えていたからである。

「あ、あれえ、青柳先生ではないですか?」

杉ちゃんも蘭も、その人物の顔を見て、驚いた顔をしていった。

「ええ、まさしくそうですよ。杉三さん。こんなところに、お買い物ですか?」

と、青柳先生こと、青柳懍は言った。

「こんなところにって、それはこっちのせりふだ。一体どこに行っていたんだよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「どこに行ったなんて、杉三さんもうお忘れになりましたか。僕は、中国の少数民族のところへ行って、建設業などのお手伝いをしていました。まだ少数民族の中には、電気もガスも水道もない種族がたくさんいるんですよ。」

と、青柳先生は、したり顔で言った。

「そうなんですか。じゃあ、何も持っていない、原住民のところに行ってたわけね。」

「ええ、そうですよ。文字すらない少数民族もいっぱいいるんです。だからまず、彼らにアルファベットを教えて、書かせることから始めなきゃ。」

「おーい、早く、乗ってくださいよ。出ないと、待ち賃、取られちゃうわよ。」

青柳先生のタクシーを運転していた運転手が、そういうことを言ったので、青柳先生は、はいはいと言って、車いすを動かした。

「青柳先生、製鉄所に行くんでしょう?」

と、杉ちゃんがいうと、

「いいえ、三日間したら、また中国へ戻らないといけないので、ホテルに泊まります。ビジネスホテル香西。あそこが障害のある人間も、親切に泊めてくださると聞いたので。」

と、青柳先生は、車に乗り込みながら言った。

「ビジネスホテル香西か。あそこは、確かに、誰に対しても親切なホテルだって、聞いたことがあるな。」

と蘭がつぶやく。それにしても、青柳先生は、いつまでも、元気だなと思った。とうの昔に80歳を超えた、高齢者というべきなのに、明るい顔をして、にこやかに笑っている。それに、中国へ赴任してからは、余計に元気になったのではないかと思われる顔をしている。

「そうか。いいなあ。青柳先生は、そうやって、生きがいがあるんだからなあ。」

実をいうと、障碍者が生きがいを見つけるのは非常に大変なことでもある。なかなか、生きがいを提供してくれるような、企業だってなかなかないし。何か創作に生きがいを見出すとしても、障碍者だからとなると、生きがいにはならないことの方が多い。そういう社会を変えるには、やっぱりそういう人がリーダーにならないとだめだろう。最近では、エクアドルという国家の大統領が、車いす使用者ということで、話題になったが、日本では絶対にありえない話だなと思う。

「でも、三日したらまた中国へ帰ってしまうんだな。いっそがしいなあ、青柳先生。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうだねえ。日本よりも、中国の不衛生で、文明化されていない場所のほうが、青柳先生は暮らしやすいのかも。」

と、蘭はちょっとため息をつく。

一方そのころ、製鉄所では。

「お願いします。」

と、一人の女性が、ジョチさんに向かって、頭を下げていた。彼女はよくある一般的な耳の形をしている。しかし、隣に座っている男性は、指が極端に長く、耳はとがっていた。青柳先生と、同じ形だ。

ただ、車いすに乗っているというわけでもないけれど。

「足が悪いので引きずって歩く子ですが、それ以外はなんでも普通にできますので、どうか、ここで下働きでもさせてやってください。」

と、いう女性。つまりこの女性は母親で、隣にいるのは息子なのだろうか。

「それでは、何日ほど、こちらで働けばいいのですかね?」

と、ジョチさんは、母親に聞いた。すると、母親はとなりに置いてあった、ショルダーバックをテーブルの上に置いて、

「これで、足りますでしょうか?」

というのである。ジョチさんは、久しぶりにこういうタイプの人が来たなと思いながら、

「そういう人は、困ります。この製鉄所では、永住ということはできません。必ず、立ち直ったら、帰ってもらうという規定があります。ここでは、住み込みで利用しても、通所で利用してもいいという規定はあるけれど、永住ということはしてはいけないことになっています。そうしてお金を出して、ここで働かせてくださいというのは言ってみれば、人身売買ですよ。それは、法律で禁止されてもいるんです。」

と、説明すると、母親は、その年老いた目に、涙を浮かべて泣き出してしまった。

「それでは、私たちはどうしたらいいでしょうか。」

という彼女。

「どうしたらいいでしょうって、そういうことは、そちらが決めることでしょう。僕たちはそれを、お手伝いする仕事をしているだけのことですから。」

というジョチさんに、

「でも、これ以上何もできることは私にはありません。もう、大学まではちゃんと行っていたのに、やめてから、なんでこういう風になってしまったのか。」

と、彼女は言うのだった。

「そうですか。大学はどちらで?」

ジョチさんが聞くと、

「ええ、東京芸術大学に行きましたが、一年もしないうちに止めてしまいました。」

という。ジョチさんは、隣に座っている、男性のことを観察した。人生に絶望してしまったような顔をしているが、なんでも母親が答えてしまうというのも、問題だと思う。

「じゃあ、息子の、野田勝さんに聞きます。野田さんは、東京芸術大学へ進学したんですね。」

と、ジョチさんは聞いた。

「はい、その通りです。」

と小さな声で答える野田。

「専攻した楽器は?」

「ええ、バイオリンでした。でも今は弾けなくなってしまいました。」

と、野田は、さらに答える。

「どうしてバイオリンを弾けなくなってしまったか、今はなすことはできますか?」

とジョチさんは聞いてみた。それができれば、苦労はないという人が多いほど、そういうことは、話せない人が多いのであるが、野田は違った。

「ええ、これのせいです。」

と、野田は、髪をいじって、耳を取り出した。とがった耳は、いわゆるエルフ耳である。青柳先生もそういう耳をしていた。そして、痩せて骨ばった体に、中指だけでも六寸は超える巨大な手。つま野田勝君は、マルファン症候群を持っていたのである。

「わかりました。自分の体の一部だから、大切にしろと言われても、そんなことはできませんよね。逆に自分の体を呪いたいくらいだったでしょう。わかりました。じゃあ、野田さんをお預かりしましょう。でも、永住するということはダメですよ。それは絶対に認めませんからね。お母さんもそのつもりでいてください。うちは、更生施設ではなく、単に場所を貸しているだけ。それを理解してもらった上での、お預かりになります。」

「ありがとうございます。短期だけでも、こちらで預かっていただけるのなら、それに越したことはありません。」

と、母親は丁重に礼を言い、じゃあ、あとは自分でやってとだけ言って、そそくさと製鉄所を出て行ってしまった。応接室には、野田君とジョチさんが残った。

「久しぶりに住み込みで来られる方が見えたので、じゃあ、製鉄所の説明をしておきましょうか。ちょっと、歩いてみましょうか。」

とジョチさんは言って、野田を応接室の外へ連れ出した。野田に与えられた居室のことをまず説明して、そして通所している人たちが、勉強したり会話したりしている食堂を、紹介した。そして、中庭、風呂などを紹介して、一番奥にある部屋まで来た。そこから、誰かがピアノを弾いている音がする。一人ではない。二人の人物がかわるがわる弾いている。ジョチさんは、野田が不快な顔をするかもしれないと思ったが、野田は、やっぱり音楽が好きなのだろうか、にこやかな顔をしている。

ジョチさんは、急いで、四畳半のふすまを開けた。中を開けると、ピアノレッスンをしていたらしい。ありがとうございましたと言って、彼女が椅子から立ち上がったところであった。

「ああ、ちょうど、ピアノレッスンが終わったところです。どうしたんですか?」

と中にいた男性が、ジョチさんに言った。

「ああ、水穂さん、ちょうど新しく住み込みのものが入りました。野田勝さんです。」

とジョチさんが紹介すると、

「ああ、わかりました。よろしくお願いします。」

と、水穂さんは、にこやかな顔をして、野田に向かって礼をする。その何とも言えない美しく、弱弱しい感じの顔は、すべての女は明らかに夢中になるような顔であったし、男であったとしても、一歩引く顔であった。そんな美しい顔をした人物が、なんでこんなところにいるんだろうか。

「彼は、バイオリンを演奏するんですって。もし、良かったら、水穂さんと一緒に、演奏してもいいかと思いますよ。」

と、ジョチさんはそう言っている。野田はちょっと頭を下げているが、水穂さんは、そうですか、無理はしないでいいですから、一緒にやりましょう、とだけ言ったのである。

「それでは、レッスンの邪魔になるから、部屋を出ましょうか?」

と、野田が言うと、レッスンを受講していた女性が、

「あれ、野田さんでしたよね。耳がとがっている、、、。」

と言った。

「ええ、でも、彼はエルフではなくて、人間なんですから、そういう事をしっかりわきまえてくださいね。」

とジョチさんが言うと、

「ええ、そうですが、そういう人って、私、尊敬しますよ。だって、ラフマニノフもパガニーニもそうだったでしょう。だからあたしは、全然気にしません。むしろ、すごいと思います。」

と、彼女は言った。

「そうですか。どうして、彼のことをすごいと思いますか?」

とジョチさんが聞くと、

「ええ、だってそれのせいで、すごく悲しい想いをたくさんして来たんでしょうし。其れのせいで、悔しかったこともあったのではないですか。だから、あたしは、それを尊敬します。それは確かにいすごいと思います。」

と、彼女は言った。

「そうですね。できる限り、みんなと一緒というわけにはいかないでしょうからね。僕は、そう思ってますよ。誰でも、そういうことはできやしないでしょうから。それよりも、自分の一部ですから、否定するのは悲しいでしょう?」

と、水穂さんが痛々しげにそういうことを言った。

「悲しいというか、自分が何をしていいのかわからなくなったんです。」

と、野田は泣きながらそういった。繊細な男だと、こうして泣くこともある。それは、とめてはいけないとジョチさんも思っている。。

「だって、これのせいで、もうバイオリンを弾けなくなっちゃったし。それで、いい点を取っても、みんな、障害がそれを作っているんだって、そういうこと言うんです。だから、演奏技術があっても、何も意味がない。」

と野田は、床の上に突っ伏して泣いた。バイオリンは、野田にとって、かけがえのない特技だったんだろう。それを、障害が作り出したとか、言われてしまっては確かに苦しいのである。

「そういうことを誰にも分ってもらえない。こんな悲しいこと、皆さんわかりますか?」

と、野田は、そういうことを言った。確かに母親も、こんなことを聞かれて、気にするなとか、お前はそのままで行けばいいんだということしかできなかったのだろう。こうなると、人間とエルフはまた違うと言わざるを得ない。

そのまま野田は、いつまでも床に伏せて泣き続けるのだった。そこを乗り越えていくことが自分ではできなかったのだろう。ジョチさんも、水穂さんも、それを責めたり批判したりすることはしない。甘えているとかそういう風に叱ったりもしない。そういうことをしても、傷つくことはわかっている。彼らのテーマは、できなかったらどうすればいいのか、を考えることなのだ。

「ええ、泣いてくださって結構です。どうぞ泣いて下さい。僕らは、止めるなんてことは絶対にしないから。」

という水穂さんの答えが、一番理想的であった。何も手は出さないけれど、同じ場所にいてくれる人間がいるというのは、結構重要である。

ふいに、製鉄所の電話が鳴った。今時、携帯電話ではなく、固定電話にかけてくるというのも非常に珍しいが、ジョチさんは急いで応接室に行き、受話器を取って、話し始める。

数分後、四畳半に戻ってくると、エルフの青年はまだ泣いていた。水穂さんがそっと、彼の肩をたたいてやっている。いつまでも泣いているところは、やっぱりエルフであった。でも、エルフも人間界で生きていかなければならないのだ。でも、彼の心についた大きな傷は、人間の薬では治せないことも確かだった。

「あの、野田さん。ちょっとお願いがあるんですけどね。あなたと同じ耳を持った方から、お話があるそうなんです。泣くのはやめて、喫茶店まで来てくれますか?」

と、ジョチさんは静かに言った。

水穂さんは、その人が誰であるのか、ちゃんとわかったらしい。彼は、

「そうですか、そういう人であれば、いってきてください。きっと何かが得られると思います。」

とだけ、言った。

「じゃあ、そうしましょう。彼は、明後日、成田に戻らなければいけないので、すぐに来てくれと言っています。」

と、ジョチさんは、小園さんに喫茶店まで送ってくれとお願した。

「じゃあ、行きましょうか。泣かないで行きましょうね。ちょっと厳しい人かもしれないけど、必ず何か得られると思います。」

二人は、小園さんが持ってきてくれた車で、バラ公園の近くにある、カフェに行った。水穂さんは、玄関先で、頑張ってくださいと言いたげに見送った。

「それでは、入りましょうか。多分、車いすのひとですから、こちらにいらっしゃると思いますよ。」

と、ジョチさんは、何も迷いもなく、野田を連れて、店の中に入った。

「あ、いたいた。青柳先生、お願いできますか?」

と、ジョチさんは、席に座っていた青柳先生に、野田を紹介する。野田勝君と名前を紹介し、彼も、耳をとんがっていることを話した。そして、野田は、音楽学校でバイオリンを習っていたがマルファンであることを理由に、いじめられ、退学してしまったことを話した。

「まあそうですか。」

と青柳先生は、そう言った。かわいそうだとも、大変だねともそういう言葉はなかった。ただ、野田の右ほほを、入れ墨だらけの巨大な手で、一発、平手打ちした。

「ちょっとやりすぎでは?」

とジョチさんが言うと、

「いいえ、この方がかえってわかりやすいかなと思ったんです。」

と青柳先生は、にこやかにいった。

「それでいいじゃないですか。いじめられて逃げるのは、必要だから逃げたんです。なんでもそうだけど、人間思いというものがある以上、完全に理論に従って生きるということはできやしませんよ。そうじゃなくて、その思いがあるなりに、自分なりに、どうしたらいいのかを考えて生きるということが、一番大事なのではないでしょうか?」

「先生は、やっぱり、厳しいですね。」

ジョチさんは、にこやかに言った。

「そういうことは、仕方ないんです。もう、人間の世界で生きていかなきゃならない以上、そうやって生きていかなきゃいけないんですよ。こういう体になってしまったなら、そうなってしまったなりに、何をできるのか、考えればいいのです。それだけの事なんですよ。僕も、あなたも、曽我さんも。」

「そうですか、先生、僕がバイオリンを弾いて、それは嘘だと言われたら、何て答えたらいいんでしょうか。それは、どう対処したらいいんですか。」

と、また野田は涙を呑んでそういうことを言うのである。

「それはもう仕方ないのです。そういう事を、言われたら、その人と自分は違うんだということを、しっかり頭に叩き込んで生きて行ってください。」

「先生は、人間を貫きとおすというよりも、エルフとして、生きて言うことを、強いているのでしょうか?」

と、ジョチさんは、そういうことを言った。

「いいえ、どうなんでしょう。そうやって種族として区分してしまうのも僕は好きじゃありません。大事なことは、事実に対して何があったか、何ができるかを考えることなんじゃないかな。それに、人間も、エルフも関係ありませんよ。医学的に言えば、マルファンの名をつけられるだけでしょ。それだけのこと何です。ただ手が大きくて、足が弱くて、耳がとがって、それだけのことです。ほかになんという考えがございましょう。」

と、いう青柳先生は、お年寄りらしく、威厳のある顔で、とても、野田にはまねできないだろうなと思われる顔であった。

「この世には、人間と動物、植物しか生息していません。ただ、人間にできることは、考える能力があるということです。一緒に、頑張りましょう。」

そういう青柳先生を見て、また野田は泣き出した。どうしてそんなに、と思われるほど泣いた。でも、青柳先生は、野田に対し、それを叱るとかとがめるとかそういうことはしなかった。野田は、泣きながら、青柳先生に、

「ありがとうございました。」

とだけ言ったのである。

「ええ、僕たちができるのは、生きて行くにはどうするかを考えるだけのことです。それを頭の中に刻んでおけば、人間社会でエルフであっても生きていけるんですよ。」

まだ、嗚咽している野田に、青柳先生は優しく言った。これを眺めていたジョチさんは、もしかしたら、青柳先生のそういうところがエルフなのかもしれないとおもった。

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エルフのバイオリニスト 増田朋美 @masubuchi4996

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