第16話 働くってどういうこと?

 その話が持ち込まれたのは桜前線の便りが近づいてきた例年よりは暖かく過ごしやすい昼下がりだった。公園で遊んでいる子供たちのママさんグループから美和子さんに相談があると連絡が入り僕と美和子さんは公園に足を運んだ。

「陽ちゃんまで来てくれてありがとう」

 以前はこの公園に子どもたちが集まる時間帯には顔を出していなかった理央さんが、ママさんグループの中心になっていた。理央さんは美和子さんを中心に展開している託児所を任されていた。

「この公園に一月前まで遊びに来ていた四月で一歳になる子の姿が最近見えないというのです」

 理央さんが美和子さんに訴える。

「お名前は?」

「お子さんは姫ちゃんです。ママの名前はわかりません」

「家はわかっているのですか?」

「ええ、それが・・・」

「わからないの?」

「はい、苗字も住まいも聞いていなくて・・・」

「何だかあまり自分のことを話したがらない人だったわよね。連絡先も交換してくれなかったし」

「そうそう、何だか上手くはぐらかされたかな」

「あまり干渉されるのが好きではない感じだったわ」

 皆思いのまま喋り出す。美和子さんは辛抱強く好き勝手な発言をちゃんと聞いている。

「この街に住んでいることは確かなのね」

「はい、家を買って引っ越してきたはずですから」

 眼の光の強い小柄な女性が答える。

「中古住宅だって言っていました」

「戸建かしら」

「そうだと思います」

「いつもどっちの方向に帰っていたかしら」

「公園を出て右の方だったと・・・」

「私、マルシンスーパーで会ったことがあります」

 今度は背の高いモデルのようなスマートな女性が大きな帽子の下から言う。

「ということは緑町かしら」

 美和子さんは少しずつ事実を掴んでいく。きっと僕よりは断然、刑事の素質がある。

「その人かご主人の職業は聞いていないかしら」

「確かその人は公務員か会社員だと思います。育児休業給付金を受給していると言っていましたから。で、ご主人は今単身赴任中のはずです」

 さっきの小柄な女性が答える。

「さすがね。何でも立ち入ったことを聞き出す天才だわ。こういう時に役に立つ」

 後ろの方にいた誰かが嫌味を言う。そんな嫌味をもろともしない人のようだ。

「他には何か気が付いたことはない?どんなことでもいいから」

「そう言えば、家のリフォームがどうとか言っていました」

「そうね、まだ途中だとか、庭の工事がこれからだとか聞いたような・・・」

 他の女性たちも次々と思いつくままに話し出す。

「そのママとお子さんの写真はないかしら?」

 一斉に携帯電話を取り出し写真を探し出す。

「理央さんはその写真を集めて私に送って頂戴。皆さんは他に何か気が付いたことがあったら、どんな些細なことでも理央さんに伝えてね。理央さん、取りまとめをお願い。後は防犯パトロール隊の出番ね」


 その日のうちに防犯パトロール隊が喫茶みわに集結した。

「緑町で最近リフォームした家は数件あるはず、皆はどう思う?」

 防犯パトロール隊のリーダー石田さんがその場を仕切り出す。

「中古住宅のリフォームだろう。まずは吉永建設にでも聞いてみるか」

「緑町に限定しても大丈夫かね」

「まずは緑町を中心に回ってみて駄目なら次を当たろう」

 防犯パトロール隊の皆が張り切り出す。警察学校で得た知識を過信していた僕はこの状況を見て考えを新たにした。警察が防犯パトロール隊の力を評価している意味が今になってやっと腑に落ちた。何だか本物の警察官より頼りになる感じだ。でも、僕は苗字も住所も知らない公園で数回会っていただけの人の消息を多くの人手まで割いて探すというのは、少し大袈裟な行為ではないかと思わずにはいられなない。公園での人間関係がただ煩わしくなって顔を出さないだけなのではないかと僕は考えてしまう。その人にとってもこんな大捜索はとても迷惑なことなのではないかと。そんな僕の心が見透かされたか、美和子さんは僕の目を見て言った。

「ちょっと大袈裟よね。単身赴任のご主人のところに行っているのかもしれないし、ご実家に帰っただけなのかもしれない。でもね、ママたちが変だと思った直感というのかしら、些細な彼女が発していたサインを私は見逃したくはないの」

「サインですか?」

「ママたちが私たちに相談をしてきたということは大事なことなの。だって今までないことだし何か胸騒ぎのようなものを感じているのよ。美味く彼女たちも言葉にはできていないけれど私も何だか落ち着かないわ。それにここにいる人たちは、仮に何もなかったとしても安心するだけで自分たちの行動が無駄なことだったなんて微塵も思わないから。私はその親子が何事もなく幸せでいてくれることを願いながら大袈裟に探そうと思っているの。陽ちゃんを巻き込んでしまって、本当に申し訳ないけれど。もし、用があったら今日はもう帰っていいわよ」

「そんな・・・僕も今日は休みですし協力させてください」

 僕の腹は決まった。親子を探すべくできうる限りのことをしよう。


 防犯パトロール隊の六名は緑町の二十年くらい前に区画整理されたとかいう住宅地を中心に聞き込みに行った。美和子さんと僕と工務店などの建設関係に詳しい防犯パトロール隊の堀さんは吉永建設に向かった。

 しかしそこでは空振りに終わる。僕たちは落胆するもこんなこともあろうかと、他にも建設会社や工務店の候補をいくつか挙げていた。三件目に訪ねた先で手ごたえがあった。

 緑町からは少し離れた駅に近い場所にある箕輪工務店で親子の写真を見せると社長の箕輪さんはすぐにリフォーム工事をしたことを認めた。

「住所を教えるわけにはいかないな」

 スキンヘッドの箕輪さんは一見近寄り難く怖い印象だったが優しい笑顔の持ち主だった。美和子さんの話によるとこの街では有名な工務店の三代目社長だという。

「そうよね。だったらこれから見回りに一緒に行きましょうよ」

 美和子さんの強引さに箕輪さんも押されてしぶしぶ外に出る。

 美和子さんは防犯パトロール隊のリーダー石田さんと連絡を取り合い、途中で合流することになった。

 僕たちは箕輪さんのワゴン車の後を追う形になった。

「あら、駐車場に屋根がないわね」

 美和子さんは探している親子の家の前に立ち注意深く観察していた。

「そうなのですよ。これから屋根を取り付けるって段階でストップがかかりまして」

「庭も整備する予定じゃなかった?」

「そうです。庭師の手配も済んでいたのですが・・・」

 僕たちはひとまずそこを離れた。聞き込みをしていた防犯パトロール隊のメンバーは近くの空き地で僕たちを待ってくれていた。

「この近くでその親子らしい二人を見かけた人がいたのですが、もう一月くらい前のことだと言います。最近はそう言えば見ていないと」

 石田さんの報告を聞いていると、隣の家に聞き込みに行っていた防犯パトロール隊のメンバーも合流する。

「隣の家のおばあさんの話だと親子は家にいる筈だと。最近は家の裏にゴミ袋が散乱していて匂いもするって話だ」

「皆さんありがとうございました。後は私が訪ねてみるからここで一旦解散しましょう」

「箕輪社長もご足労頂いて申し訳ございませんでした」

「いいや、私も一緒に行きますよ。だって美和子さんは面識がないのだからその方がいいでしょう」

 箕輪さんは初めのうちはそれほど深刻な顔をしていなかったのだが、少しずつ事態を深刻に受け止めるようになっていた。

「僕も行きます」

 僕も勿論、美和子さんに同行するつもりだった。

「ありがとう。じゃあ、お願いします」

 防犯パトロール隊の皆さんと別れて僕たちは親子の家に再び向かった。

 箕輪さんがインターフォンを押すも家の中からは何の反応もない。

「村本さん箕輪工務店です。留守ですか?」

 何度呼び掛けてもなしのつぶてだった。僕たちは家の裏に回った。

「すごいな、これは・・・」

 僕は思わず声を上げてしまった。家の裏のほんのわずかな塀との隙間にゴミ袋が山積みにされていた。隣の家の人が言う通り、異臭がしてくる。一階の雨戸は全て締め切っているが二階は雨戸が開いていた。僕はカーテンの隙間から誰かがこちらを見ているのを確認した。

「二階に誰かいます」

「まさか鍵を壊して押し入るわけにはいかないわね」

 さすがの美和子さんにもなす術がなかった。

「あの、リフォーム工事はどなたかの紹介だったのではないですか?」

「さすが陽ちゃん。どうお?紹介者はいないの?」

「ああ、確か進藤不動産からの紹介でした」

 進藤不動産は浜野君が勤めている会社だ。それならと僕たちは急遽進藤不動産を目指した。


 進藤不動産の社長の進藤さんは僕たちの野球チームでも六十代とは思えない活躍ぶりを見せてくれていた。杉山さんのリアンハイムでの普通とは違う賃貸契約に関しても理解があり、発達障害を抱えた浜野君への対応も素晴らしく、とても尊敬できる人だった。

「ああ、穂香ちゃんは僕の妻の姪っ子でね。あの家を買うことを勧めたのは私なのだよ。なんだ、そんなことになっているなんて知らなかったな。実は今、妻が入院していてね」

「あら、知らなかったわ。心配ね」

「いやいや、腰の手術をしてね。誰にも言いたくないからって、こっそり入院したのだよ。でももうすぐ退院だし、元気は元気だからうるさいったらありゃしない、ガハハハッ・・・」

 お得意の笑い声に僕たちもつられて笑ってしまっていた。

「そんなことより心配だな。合鍵を預かっているから早く行こう」

 笑顔をすぐに引っ込めて僕たちはまた村本さん宅に急いだ。


 合鍵でドアを開けると何とも言えない匂いが漂ってくる。一階には誰の気配もなかったので僕たちは揃って二階に上がる。進藤さんと僕は階段を上がって右手の部屋をノックして入った。そこには呆然とベッドに横たわる女性がいた。

「穂香ちゃん、大丈夫かい?」

「えっ・・・誰・・・伯父さん?」

 穂香さんは虚ろな目を僕たちに向けた。身体は衰弱していて自分でも自由には動かないようだった。

 子ども部屋に入った美和子さんと箕輪さんはスヤスヤと昼寝をしていた姫ちゃんを見つけて抱っこして母親のところに連れてきた。比較的元気そうである。

「子どもにはちゃんとご飯は食べさせていたようね。これは育児放棄というよりかはセルフネグレクトね」

 僕たちは急いで穂香さんと姫ちゃんを美和子さんの知り合いの女医さんが経営する病院に連れて行った。


 以前会ったことのあるその女医さんの病院は僕が想像していたよりも大きな総合病院だった。偶然にも進藤さんの奥さん曜子さんが入院していたのもその湯島総合病院で姫ちゃんは進藤さんの奥さんに会って笑顔を見せていた。元院長の日美子先生が全てを上手く取り計らってくれることになった。

「この子はちょっと体重が少ないけれども比較的健康よ。ただお母さんの方は衰弱が激しいからしばらくは入院ね」

 曜子さんの病室で僕たちはこれからのことを話し合っていた。

「私も気にしてはいたのよ。ただ若い子でしょう、あまり干渉してもね。それに私もこんな身体だから放っておいてしまって。可哀想なことをしてしまったわ」

 大福のような頬をしていつも笑っている曜子さんの顔から笑顔がなくなっていた。

「仕方がないですよ。もっと早くにって思うけれども今で良かったって思わないと」

 美和子さんが曜子さんの肩をさする。

「そうですよ。美和子さんがこうやって大騒ぎしなければ、この子だってもっと時間が経ってしまい危ないところでしたよ」

 日美子先生の言葉に皆が頷く。

「美和子さんも皆さんも本当にありがとうございました」

 進藤夫妻は僕たちに頭を下げた。

「でも、曜子さんの身体が完治するまで姫ちゃんをどうするかが問題ね」

「病院で面倒をみるわよ。病院というか私が預かるわ」

「でも仕事があるでしょう?」

「前にも言ったかもしれないけれど、もう院長ではないからそれほど忙しくはないし、この病院には美和子さんからのアイデアでスタッフの子どもたちが通う育児室があるから問題ないわ」

「夜はこの病室でというわけにはいかないかしら」

「看護師長と話してみるわ」

 夜の病室で幼児を預かるのはやっぱり許可が出ず日美子先生が自宅で世話をしてくれることになった。


 数日後、僕は美和子さんに誘われて穂香さんの見舞いに病院を訪れた。

「ご迷惑をお掛け致しました。本当に申し訳ございません」

 顔の色艶が良くなり表情も明るくなった穂香さんだった。

「姫ちゃんも元気そうだし、まずはよかったわ」

 美和子さんは穂香さんの背中を優しくさする。

「何があったのか、話してくれるかしら?」

「はい」

 穂香さんは深い呼吸を一つした。

「私と夫は同期入社で同じ支店で働いていました。結婚を機に支店は別々になり私の方が出世することができました。少しして子どもを授かり産休に入り今度は復帰するタイミングを計っていたのですが、思うようにはならなくて・・・」

「ちゃんと会社には育児休業制度はあるのでしょう?」

「はい、上司と話をした時は、会社は応援してくれていて私の復帰も歓迎ムードだと思っていたのですが・・・」

「そうではなかった」

「はい、こっちへの引っ越しが出産後急に決まったので、四月からの保育園への入園許可が下りなくて・・・」

「引越をしてきたのは今年の一月だったわね。それだと四月からの入園は難しいわね」

「そういうものなのですか?」

「陽ちゃんは知らなくても仕方ないわね。そうなのよ」

「それに姫ちゃんは四月には一歳になっているのだから余計に難しいわね」

 僕には縁の遠かった話なので初めて知ることばかりだった。

「はい、私もてっきり〇歳児の方が入園は難しいと思い込んでいて・・・」

「えっ、どうしてですか?」

「だって〇歳児で入園していた子たちがこぞって一歳になるのだから枠がないのよ」

「枠ですか?」

「そう、先生一人に対し見られる子どもの数に制限があるからね」

「ただ、保育園の話ばかりではなくて、会社の対応が・・・」

「今の育児休業制度は最長二年まで取れるはずじゃない?」

「制度上はそうです。それなので子どもを連れて会社に相談に行きました。同僚たちも私の出産を喜んでくれていると思ったから・・・」

「会社に赤ちゃんを連れていったら歓迎ムードではなかったのね」

「はい、一番私を信頼してくれていた後輩にも無視されてしまいましたし、友達だと思っていた同僚にも露骨に嫌な顔をされました。皆LINEではすごく喜んでくれていたのに・・・」

「仕事現場は大変そうだったのね」

「はい、私がいなくなり人員の補充があるはずだと聞いていたのですがそうではなかったみたいで、皆疲れているようでした」

「まだまだ難しいわね。現実は」

「はい、上司が言うのには私の戻るポジションはもうないと・・・」

「そんな・・・」

 僕は女性が置かれている現状を聞かされ心の底から腹が立ってきた。

「まだまだ女性が働きながら子育てをすることに理解のない会社が多いから」

 僕は美和子さんが冷静にその事実を受け止めていることに少し驚いた。

「夫の方が出世していって、私は置き去りにされた気分です。彼の子なのにどうしてわたしばっかり犠牲にならなくてはならないのですか?」

 穂香さんは美和子さんの冷静さとは正反対に徐々に頭に血が上ってきたようだった。

「家だって勝手に進藤の伯父さんと決めてしまうし、子育てが大変な時期なのに、栄転だって浮かれて喜んで単身赴任を受け入れてくるし、私に仕事を辞めろ、ってことでしょう。誰も私の味方をしてはくれない」

 穂香さんは最後には涙声で訴えていた。

「そうね。辛いわね」

 美和子さんは穂香さんに寄り添って穏やかに話し始めた。

「今の会社で出世をすることが穂香さんの目標だったのかしら?」

「えっ、それは・・・」

 穂香さんは戸惑っていた。

「穂香さんはまだ三〇歳でしょう。まだまだ夢を追いかけたっていいはずよ」

「夢ですか?」

「そう、正社員の椅子や会社での出世ってそんなに大事なことなのかな。それよりも本当に自分がしたいことを探す方が私は大切だと思うけれど。夢に向かって頑張ることの方が」

「学生時代は今の会社に入ることしか考えていませんでした。入社してからは会社で出世することしか頭になかったのかも・・・」

「そんなに仕事が楽しかったのね」

「いいえ、仕事自体は楽しいなんて思ったことありません」

「あら、それは駄目よ。仕事って楽しくなければ人生がつまらなくなってしまうわ」

「仕事なんてそういうものなのでは・・・」

「陽ちゃんはどう思うの?」

「僕ですか?楽しいと言ったら警察官の場合は語弊があるのかもしれませんが、多くの人と出会えてそれが人の助けにもなると思うと、やりがいはあります」

「何だか優等生の発言で面白味はないけれど、まあ、そんなところかしら」

「はあ・・・」

「陽ちゃんはこれから出世をしていくつもりなの?」

「そうですね。警察官の場合は出世をして管理職になるか現場に留まるかまずは自分で選択することができます。僕もこれから昇進試験を受けるかどうか決めなくてはいけなくて、まだ色々と迷っているところです」

「そうね、前にいたお巡りさんは現場での活躍が認められて昇進試験もパスしていって本部長にまでなったからね。ノンキャリアでも」

「そうなのですか?」

「まあ、そういう道もあるってことよ。現場に拘って頑張っている立派な人たちも私は沢山知っているわ」

 美和子さんは警察の中にまで交流の輪を広げているようだった。僕のことは全て筒抜けなのだろうなと気付かされた。もしかしたら人事権だってありそうな勢いである。

「夢なんて考えたこともありませんでした。ただ、仕事をしていてふと虚しくなったことがあります。私は何をしているのだろうって、何のために頑張っているのかなって・・・」

 穂香さんは遠い目をして天井を見つめている。少しは怒りの感情が収まってきたようにも見えた。

「だったら、純粋にどんな仕事をしたいのか考えてみたらどうかしら」

「会社は・・・」

「今の会社でなくても仕事はいくらでもできるのではないかしら。自分で作り上げることだって」

「自分で作り上げる?」

「そうよ、仕事って誰かの役に立つことじゃない。自分ができることを宣言していればお金を払って頼んでくる人がいるかもしれない。それをシステム化していけば安定した収入になるはずでしょう。難しく考えることではないわ。それにしばらくは働かなくてもご主人に頼ればいいのだし」

 しばらく一人で考えたいという穂香さんを残して僕たちは病院を後にした。

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