第15話 子どもカースト

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』を美和子さんに誘われて観劇に行ってきた。主人公のジャン・ヴァルジャンよりジャヴェール警部の方に感情移入してしまい美和子さんとは感想が一致せず帰りの電車で気まずい思いをしていた。

 駅のホームは午後十一時近くでもあるせいか人もまばらで閑散としている。異変に先に気が付いたのは美和子さんだった。

「危ないわよ」

 ホームの端に立っていた制服を着た女子高生の腕を掴み強引にホームの中央まで連れて行く。その子はただ泣きじゃくるだけだった。


 少し落ち着いたところで喫茶みわに連れて行く。お店は通常午後十時までだが、その日はマスターの大森さんとウェーターの神田さんが店の後片付けのため残っていた。

 状況を察した大森さんが奥の席に案内してくれた。神田さんは温かいココアを三人に出してくれた。

「お家に電話する?」

「はい」

 ハッキリした声で彼女は言った。自分でお母さんに電話をすると迎えに来てくれることになった。

「ありがとうございます」

 ココアを飲むと落ち着いた表情で僕たちに頭を下げた。美しいストレートヘアのごく普通の女子高生だ。

「ちゃんとお母さんに話しを聞いて貰うのよ」

「でも、心配かけたくなくて・・・」

「じゃあ、他人のおばさんになら話せるかしら」

 少し考えていたがか細い声ながら話を始めた。

 弘中智花というこの近くの公立高校の一年生で新体操部に所属していたという。

「新体操部は辞めてしまったの?」

「はい、先輩が厳しくて・・・」

「何かあったのかしら」

「足が太いとか顔が大きいとか、面と向かって言われていました。ネットでも私の悪口が沢山あって・・・」

 足も太いどころか僕からしたら細すぎるくらいだし、顔だって比較するのも何だが美和子さんよりかなり小さい。

「誰にも相談できなかったのね」

「はい・・・」

 智花さんに対するネットでの悪口は思いの外えげつなく、僕が同じことを書かれたらやっぱり死にたくなるかもしれないと思った。

 そこに智花さんのお父さんとお母さんが迎えにやってきた。

 二人は席に落ち着いた。美和子さんが智花さんから許可を得て、駅のホームでの出会いやいじめられている事実を説明した。

「気付いてあげられなくて、ごめんね」

 智花さんのお母さんは優しく智花さんを抱き寄せた。

「お母さんに任せっぱなしで、お父さんも悪かったね」

 両親共に優しそうな人たちだった。だからこそ智花さんはいじめられている事実を話せなかったのだろうか。

「この子の姉は今大学生なのですが、何でも話してくれるというか我儘放題で反抗期もすごくて、それに比べてこの子は親に一切迷惑をかけたことがなく、それで安心しきってしまったところがありまして・・・」

「実は最近、夫婦で反抗期のないのは少し心配かもしれない、という話をしていたばかりでして、もっと早くに話しを聞いてあげていれば・・・」

「子どもに頭を下げられる親は大丈夫ですよ。私なんてそうする前に・・・」

 美和子さんの遠くを見る目が悲しそうで、僕はつい目を逸らしてしまった。

「今夜はゆっくり寝て、これからのことは明日から考えましょうね。智花さんの通っている高校の先生なら知っている人もいるし、私でよかったら相談にのるからね」

 美和子さんはいつもの調子で頼もしい声をかけた。

「ありがとうございます。どうしていいかわからないので、よろしくお願いします」

 智花さんたち家族が帰ってから僕たちはそのまま少しだけ飲むことにした。

「大森さんも神田さんも遅くまでごめんなさいね」

「いいえ、帰ろうとも思ったのですが、ちょっと気になることがあったので・・・」

 神田さんが話を始めた。神田さんは元銀行員でかなり偉い立場だったそうで、喫茶みわで働く前は人を寄せ付けない雰囲気があったと話し好きの寛子さんから聞いていた。僕の印象は優しくて頼りになる人だった。

「どうしたの?」

「あの制服を見てうちの孫と同じ高校だと思いまして、しかも新体操部と聞こえたので・・・」

「あらそうなの」

「実は今、名前は萌絵というのですが、親元を離れて我が家で暮らしているのですが、ネットで誰かの悪口を書き込んでいるのを見てしまいまして」

「あら、それで」

「すみません。言い出したら良かったのかもしれませんね」

「いいのよ、まだはっきりとわかったわけではないのだから」

「私はどうしたらいいのでしょうか?」

「そうね、まずはここへ連れてきたら?」

 いつもは冷静沈着で紳士の神田さんの目が泳いでいた。本当にどうしていいのかわからないのだろう。

「ご両親は遠くにいるのかしら?」

「いいえ、都内に住んでいますが学校に近いということで私の家に住んでいるのですが、本当のところは両親と上手くいっていないようでして・・・」

「反抗期ってところかしら」

「中学受験に失敗して高校も母親の希望には添えなかったようで・・・」

「親のために受験をするわけではないのにね」

「息子は仕事にかまけて何も言わないみたいで・・・」

 いつもは明るい神田さんの表情が話を続けながら曇ってくる。初めて見る神田さんのそんな顔を僕は直視できないでいた。


 その翌日、僕は休みで朝から数日分の洗濯や部屋の掃除をして過ごしていた。お昼近くになりふと思いついて喫茶みわに行った。美和子さんや涼子に呼び出されて行くことが多かったのだが、最近では自ら足を運ぶことが増えている。ランチを外食する金銭的余裕ができたことも一因だが、喫茶みわでの人々の何気ない交流が楽しみでもあったからだ。

 喫茶みわに入るとウェーター姿の神田さんが奥の席に座っている。テーブルを挟んだ向かいにはちょっと精彩を欠いた中年男性が居心地悪そうにしていた。

「陽ちゃん、こんにちは」

 神田さんが予想に反して元気に僕に声をかけてくれた。

「こんにんちは」

 精一杯明るく返す。顔が引きつっているのが自分でもわかった。

「美和子さんも陽ちゃんもこっちへ来てください」

 奥から出てきた美和子さんと僕は神田さんたちの席に座る。

「息子の浩章です」

「初めまして父がお世話になっています」

 美和子さんの後に僕も自己紹介をした。勿論、警察官だということは名乗らないのだが。

 浩章さんは少し困惑していた。

「いやあ、二人きりで話をするのはちょっと照れくさくてね」

 神田さんは正直な思いを口にする。

「そうだね。誰かがいてくれた方がいいのかもしれない」

 浩章さんは開き直った表情で話をし出した。

「実は銀行を辞めようと思っていまして・・・」

「浩章さんは神田さんの家にいる萌絵ちゃんのお父様かしら」

「ええ、そうです」

「銀行も今大変らしいわね。リストラの記事をみたことがあるわよ」

 美和子さんは僕が触れられないことをストレートに言う。

「その通りです。私もまあ、リストラです。もう銀行に居場所はないので」

「麻子さんは納得しているのかい?」

 麻子さんというのが浩章さんの奥さんで萌絵ちゃんのお母さんのようだ。

「いいえ、まだ話をしていなくて・・・」

「辞めてどうするつもりなのかしら?」

 美和子さんは神田さんの声を代弁する。

「はい、こっちで仕事を探そうと思っています。萌絵も父さんのところで暮らしていますし。それに、萌絵の弟が不登校になってしまって、その子をこっちの学校に転校させようかと・・・」

「私は構わないが・・・」

「許してくれるのか?銀行辞めるなんて父さんには許しがたいことだと思ったから・・・」

「そうだな、以前の私なら『男として意気地がない』って一喝していたかもしれない」

 神田さんは高笑いしていた。

「浩章、本当にすまなかった。私に責任の一端はある」

「そんな、どうしたの?」

「ここで働くようになって私も色々と気付くことがあってね。そうだ、そろそろ萌絵もここに来る時間だ」

「萌絵が?」

 制服には似合わない化粧をした長い髪の少女が店の前に立っているのを僕が気付き、中に招き入れた。

「萌絵さんだね」

「はい」

「お祖父ちゃんとお父さんが待っているよ」

「お父さん?」

 父親の隣に座る萌絵さんはさっき外で立っていた時より幼い表情になっていた。美和子さんと僕はもう一度自己紹介をした。さっきと違うのは美和子さんが僕のことを警察官だと付け加えたことだ。萌絵さんの肩がぴくっと動いた。

「萌絵は広中智花さんという子を知っているね。新体操部の一年生らしい」

 神田さんの質問に萌絵さんは答えない。

「ネットで悪口を書いているね」

 神田さんは落ち着いた表情で萌絵さんの顔を覗き込む。

「悪口なんてこの子が書くはずないじゃないか」

 浩章さんは萌絵さんを庇う発言をするが自信はなさそうだった。

「元銀行員の年寄りにはパソコンは使えないと思っているかもしれないが、私は昔からパソコンが好きで自分で組み立てだってできるのだよ」

 萌絵さんが神田さんの目を見る。捨てられた子犬のように縋るような表情だった。

「家のパソコンを自由に使っていいと言っていたからね。どんな利用の仕方をしても構わなかったが、人を傷つける道具にするとは許し難いことだからね」

「ごめんなさい」

 消え入りそうな声だった。

「智花さんは自殺をしようとしていたのだよ」

「そんな・・・私だってもっとひどいことを書かれたから・・・智花ではないけれど・・・」

「誰かに悪口を書かれた時点で大人に相談はしなかったのね?」

 美和子さんは萌絵さんの背中を摩りながら優しく聞いた。

「はい」

「気が付かなくてごめんな。父さん仕事にかまけてお前たちのことを放っておいてしまったから」

 萌絵さんは声を上げて泣き出した。泣いている姿は小学生の高学年くらいにしか見えなかった。


 数日後、萌絵さんと智花さんが喫茶みわにやってきた。二人は別々に入ってきた。美和子さんに促され向かい合って座ると、先に萌絵さんが言葉を発した。

「智花、ごめんなさい」

「うん」

「許してくれる?」

「削除してあったし、もういいです」

 智花さんには美和子さんと一緒に萌絵さんが謝りたいことや萌絵さんもいじめられていたことなどを話していた。学校へも父親である浩章さんが相談に行き、新体操部の中で起こっている問題を顧問の先生を中心に真剣に対応し始めたという。

 化粧をしていない萌絵さんの顔は晴れやかだった。智花さんも少しふっくらした頬で溌剌さを取り戻している。

「でも、傷ついた心はそう簡単には元には戻らないでしょう」

 美和子さんはいつもとは違う厳しい表情で二人に言った。

「はい、私もそうだから、智花だって苦しかったはすです。本当に取り返しのつかないことをしてしまいました」

「先輩だって同じ目にあったのだからお相子でしょう」

「でも、智花は他の人を攻撃しなかったでしょう」

「余裕がなかったからかな。それに他の人を攻撃しても解決するとは思えなかったから」

「そう思えるなんてすごいね。智花がお母さんとの話をしているのが私はすごく羨ましくて・・・」

「そうなの?」

「うん、だって私はお母さんとカフェなんかに行ったことないもの。お母さんは私のことなんて好きじゃないから・・・」

 そこに神田さんが二人のためにスペシャルパフェを持ってきた。

「これ私大好き」

 曇っていた萌絵さんの顔が一気に明るくなる。

「お祖父ちゃん、ありがとう」

「すごい、こんなの初めて食べるわ。先輩こんなものいつも食べているの?」

「いつもじゃないけれど、お祖父ちゃんが家で作ってくれるから」

「いいな、優しいお祖父ちゃんがいて。私なんて近くにはいないし、お母さんの方のお祖父ちゃんはもういないから本当に羨ましい」

 萌絵さんは誇らしげにパフェを頬張る。智花さんも目を見開いて食べるのに専念している。若い子たちのコロコロ変わる表情を僕は雄大な山の景色を前にしているかのように呆然と見とれていた。


 僕は学生時代にいじめを経験してはいなかった。というか、鈍感だった僕はいじめられていても気が付かなかったのかもしれない。ただ、先生たちはいじめがあることを前提に行動していた記憶があり、些細ないじめや子ども同士の喧嘩でも、何かというと話し合いをしていた。大学生になってからは友だちができなかったが、それでも全く困らなかった。涼子に言わせれば、僕は他の人が気にならない特異体質だそうで、根っからのマイペースらしい。SNSにも興味がないし、流行りの服や食べ物にいたっては、どうにも身体が受け付けない。タピオカなんてカエルの卵にしか見えないのは僕だけなのかと落ち込むこともあるのだが。まあ、それで何とか生きてこられたのだから、それに今では多くの様々な種類の人たちに囲まれて楽しくやっているのだから、僕は僕で良かったと思っている。

 人を比べて人の上に立ちたいと思う人たちが存在している。ヒエラルキーというものがこの世からなくならない事実を悲しく思う。

 萌絵さんのお母さんはどうしても萌絵さんのことも夫の選んだ生き方も受け入れることができなかったらしい。萌絵さんは両親の離婚が成立したと喫茶みわに報告に来た時は少し寂しそうだった。それでも『私はお母さんとは違うから』と帰り際には明るい笑顔を見せてくれた。隣には智花さんもいるし、お祖父さんとお父さん、それに弟の姿もあった。

 弟で中学生の卓君は公立の中学校に転校して毎日学校が楽しいと言っていた。僕はエリートと呼ばれる人たちを別世界の住人だと別けて考えていたが、同じ人間で苦しい思いも沢山あることを知った。

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