第14話 不思議なカップル
真夏の太陽が照り付ける中、僕は汗と泥まみれの格好でバッターボックスに立った。僕がヒットを打てば逆転サヨナラの場面だった。緊張感が半端なく押し寄せてきて手には嫌な汗が出始める。こんなに胸がドキドキしているのはいつ以来だろう。もう一人の自分が冷静に考えている。ベンチには亡くなったはずの父と母の姿が見えるような気がする。大きな声援で我にかえるとボールは既にキャッチャーミットの中だった。
「次、頑張ろう」
キッチン富士で試合の打ち上げをしていると山下さんに肩を叩かれた。
皆は僕の三振で負けたことを責めたりはしなかったが僕は生まれて初めてかと思うほど、悔しさで胸が押しつぶされそうになっていた。
『悔恨に胸が噛まれるのを感じた』という藤沢周平の小説の一節が頭を過る。大袈裟だし状況も全く違うけれども。
「どうしたのよ、元気出しなさい」
応援に来ていた涼子が励ましてくれるが、益々惨めな思いが押し寄せてくる。
「私ね、父の会社に就職することにした」
涼子は僕の感情はお構いなしに唐突に自分の話をし出した。
「そう、良かったじゃないか」
涼子の顔を見ていたら何だか不思議と三振したことがどうでもよくなってくる。
「そこで何か私にできることややりたいことを見つけようと思って」
「そうだよ。頑張れよ」
「ありがとう」
キッチン富士での打ち上げも一時間も経過をするとバラバラと人がいなくなる。その日も結局は僕と涼子以外では、ここのシェフの山下さんと野球チームのスポンサーでもある美和子さんと杉山さん、リアンハイムに住む久木田さんと浜野君が残っていた。
「浜野君の隣の部屋に先月入居してきた男性ってまだ若いよね」
久木田さんが浜野君に聞いていた。
「はい、僕と同じくらいでしょうか」
「何かあったのかい?」
大家の杉山さんが心配そうに質問をする。
「最近その部屋に女性が入っていくのを見かけたのですが四十代位の人だったのでどういう関係かなって思って」
「あら、久木田さんでもそんな下世話なこと考えるの?」
美和子さんが久木田さんをからかう。
「僕もちょっと変だなって思っていました。確か数日前からずっと部屋にいますよね」
浜野君が久木田さんをかばうように言葉を繋げる。
「お母さんじゃないの?」
「いいえ、そんな雰囲気ではなくて・・・」
「年の離れたカップルかしら。いいじゃないの、ほっといてあげたら」
美和子さんはこういうことには意外と寛大である。
「そうなのですが何だか様子が変ではあるのです」
「どういうこと?」
「僕が仕事から帰ってきて自分の部屋のドアを開けようとしていた時にその女性が隣の人を訪ねてきたのですが、ちょっと揉めている様子でした」
「どう揉めていいたの?」
涼子が好奇心丸出しで質問をする。
「どうしてここが分かったのか、とかお金がどうのとか・・・」
「ところでその部屋の人はどういう人なの?」
「個人情報ですからここでは・・・」
美和子さんの質問に杉山さんは答えなかった。
「そうね。ごめんなさい。仲の良いカップルであれば歳の差なんて関係ないけれど、訳ありであれば心配ね。どんな女性なの?」
「普通の主婦という感じでしょうか。派手でもないですしどちらかというと地味というか・・・」
「家出でもしてきたのかしら」
「あっそうかもしれません。ボストンバックを持っていました」
「杉山さん、今度はいつ集金に行くの?」
「集金って?」
涼子が聞く。
「杉山さんのアパートは入居者の審査が普通とは違うのよね。無職でも入居できる代わりに家賃は大家さんが集金することと生活指導もするという条件があるの」
「それは大変ではないのですか?」
「昔だったらそんなことはしていないけれど、今はちょっとボランティア的な思いがあってね。生活を立て直したいという人を支援することが目的だから」
美和子さんの影響が大きいのではないかと僕は確信していた。
「ということは、その人も生活を干渉されていることを知っているのよね」
「そうですね」
干渉という言葉はどうなのかとも思ったが干渉やお節介が犯罪を未然に防ぐことに繋がることを僕は否定できなくなっていた。
「だったら様子を見に行きましょう」
美和子さんは杉山さんと集金も兼ねた町内会のお知らせを持ってその人の部屋を訪ねることになった。明日は休みだと僕が言うと、案の定同行することになった。僕のお節介度も日に日に高くなっているのか、同行することが当たり前に思えてくる。
僕がリアンハイムを訪れると杉山さんと美和子さんが蝉の声が降り注ぐ中、アパート周辺を掃除していた。
「すみません。僕もお手伝いします」
「陽ちゃんはいいのよ。私が勝手にしているのだから」
「美和子さんは時々このアパートの掃除を手伝ってくれていまして、本当に助かっています」
「杉山さんに入居審査について意見を言ったのは私だからね。私が紹介した人も入居しているし」
「そうなのですね」
こういったアパートが増えれば犯罪も減るのかもしれないと思ってしまう。簡単にできることではないので軽々しく口にはできないのだが。
「じゃあそろそろ行きますか」
杉山さんの言葉で僕たちは浜野君の部屋の隣を訪ねた。その部屋は一階にあり日当たりも良くベランダには洗濯物が几帳面に干されていた。
「こんにちは、大家の杉山です」
「はい」
髪はセット前なのか無造作にしてあるがキチンと整った細い眉の綺麗な顔立ちの男性が笑顔で出てきた。美和子さんと僕の姿を認めると少し驚いた表情を見せたが嫌な顔はしなかった。接客の心得があるのかもしれない。
「ごめんなさいね。大勢で押しかけて。町内会のお知らせを持ってきました。お邪魔してもいいかしら」
疑問形で話しかけながら強引に行動するのは美和子さんの常套手段だった。杉山さんと僕も美和子さんに続いて部屋に入った。
リアンハイムはどの部屋も同じ間取りになっていて玄関を入るとすぐにキッチンで二畳ほどのスペースがあり奥の引き戸を開けると八畳ほどの板の間になっていた。
美和子さんは引き戸が開いていたのでそのままずかずかとリビング兼寝室に上がり込んだ。杉山さんと僕はキッチンに留まる。するとそこに美和子さんと入れ違いに女性が出てきた。
「二人もこっちへ」
美和子さんに促され杉山さんと僕もリビング兼寝室に入った。
ソファーベッドにはカバーがかけられ天井まである後付けの収納スペースに全て物が収まっているのかホテルのような印象の部屋だった。全体をモノトーンでまとめてあるところもお洒落だ。
女性はお茶を出すと外出するそぶりを見せたので美和子さんがそれを制止した。
「お二人でそこに座って」
美和子さんはソファーベッドに二人を座らせた。美和子さんと杉山さんはテーブルを挟んで向かい側に座った。僕は美和子さんの後ろにスペースを見つけて座った。
「あの今月の家賃です」
男性が杉山さんに早々に渡した。きっと早く帰って欲しいと思っているのだ。そこで間髪入れずに美和子さんが発言する。
「私はこの町内で婦人部長をしている矢代美和子です。こちらは町内の野球チームの近松陽介君です」
「横手卓也です」
「豊田響子です」
不思議なもので会話の流れというものがあり本人が言いたくない場合でも、つい名前を言ってしまうことがある。彼女も名前を言ってからしまった、というような顔をしていた。
「お仕事は何をしているのかしら?」
「今は何もしていません。以前はホストをしていてお金も結構稼いでいたのですがあの世界に疲れてしまって・・・」
確かにお金に困っている様子はなかった。
「このアパートの規約は知っているわよね。職業や収入の決まりはないけれども生活指導もするということを」
「はい」
「あなたはここで一緒に暮らしているのかしら」
美和子さんは響子さんに向かって聞いていた。生活指導は杉山さんがするべきで美和子さんが前に出るのはどうなのかとふと頭を過るが横手さんが疑問に思っていないようなので僕も受け入れることにした。
「はい。でも・・・」
「家出でもしてきたの?」
相変わらず単刀直入の美和子さんだった。
「・・・」
俯いたのを肯定したと見立てて美和子さんは話を続ける。
「ホストのお客さんだったのかしら」
「はい」
こうなると相手は素直に答えるしかなくなる。観念している時の人の表情はどれも同じように見える。美和子さんが刑事だったら被疑者を落とすのは簡単だろう。
「私がお金を借りていました。それで返そうと思ってここを突き止めて・・・」
「お店ではなくて横手君に借りていたの?」
美和子さんは親しくなると年下の男性には君付けで呼ぶ。横手さんもそれを受け入れていた。
「何度か彼に会いにお店に通っていたのですがお金が続かなくて。私専業主婦なものですから自由なお金が限られていて。でも彼のことが忘れられなくてお金が無いのに行ってしまって・・・」
「そんなことってホストの世界だとよくあることではないの?お店だって様々なお金の回収手段を持っているでしょう」
「はい、でもお金が無いって彼に言ったら自分のお金で払ってくれて。それなので数日後に定期を解約してお店に行ったら、彼はすでに辞めていて・・・」
「どうして辞めてしまったの?」
「向いていなかったのでしょうね」
「ナンバーワンにまでなっていたのにね」
横手さんがナンバーワンだったことが響子さんにとっては自慢のようだった。
「接客業は好きだし人が喜ぶことをするのは楽しかったのですがお金が絡むと何だか汚いものに見えてしまって」
「お金が絡むから面倒がなくなるというのが世間というものよ。ホストの世界はよく知らないけれどもあまりにも大きいお金の動く世界だと人の心がおかしくなってしまうのかしらね」
「周りは派手な生活が当たり前でシャンパンタワーに何百万って払わせて、そのお金もあっと言う間に車や時計に変えてしまい、それだって必要な物というよりは誰かに見せびらかすための物に過ぎなくて、どんどん人生が虚しくなってしまって・・・すみません、支離滅裂ですね」
「いいや、私には何となくだがわかる気がするよ。高価な絵画や花瓶を集めても何の意味があるのだって思うからね。どうしてなのかね」
杉山さんの言葉にも実感がこもっている。高価な品物を所有したことのない僕には縁遠い話だった。
「物には用途があるからそれ以上でもそれ以下でもないのかも・・・」
消え入りそうな声で僕は独り言をつぶやいた。
「陽ちゃん良いこと言うわね。その通りよ。絵画だって心和ませてくれるものだったら数千円だって価値があるけれど、誰かが決めた価格が何億円だったとしても心が動かなければその人にとっては価値がないも同じよね」
「価値・・・私の価値もないから・・・」
響子さんの声に皆の視線が集まる。
「自分の価値を証明したくてホストクラブに通っていたの?」
美和子さんが優しく問う。
「夫は単身赴任で海外にいます。高校生の息子も夏休みの間だけですが留学してしまって・・・そんな時に学生時代の友人が二十歳以上年下の人と結婚することになって久々にお祝いも兼ねて会いました。彼といると女性としての喜びが実感できるなんて話を聞いていたら、私は女性としての喜びなんてずっと感じたこともなかったなって思ってしまって・・・私には女としの価値はもうないのかなとも思えてきて、虚しさと惨めさで胸が苦しくなっていました。身体の底から得体の知れない液体が沸々と湧いてくるような感覚に襲われて・・・友人と別れて初めて一人で新宿の繁華街を当てもなく彷徨っていました」
「ちょうどお客様をお見送りしているところに響子さんが幼子のような表情で歩いてきました。お客さんにするぞ、という感覚より保護しないと危ないな、という印象の方が強かったのを覚えています」
「そこで私は女性として扱って貰えたことが本当に嬉しかった。やっと女になれたのだ、と思いました」
「それでここまで追いかけて来てしまったのね」
「はい、お店に行ったら彼の後輩の子が住所を教えてくれたので・・・」
「後輩にプレゼントすると約束していた時計を送っていたからね。まさかあいつが送付状を取っておくなんて・・・」
「ここに来てどれくらいかしら?」
「十日になります。でも・・・」
響子さんが横手さんを見る。横手さんは響子さんの視線に気付かないふりをしていた。
「何もないのね」
美和子さんの言葉に響子さんが頷く。
「どうしてわかる・・・」
僕は発言してしまってから思わず自分の口を押えた。
「二人が男女関係でないことは一目瞭然よ」
「ホストなんてやっていたから誤解されてしまうのですが、私はあまりそっちの方には興味が無くて・・・」
「響子さんは女性の喜びは愛する人との営みでしか得られないと思っているのね」
そっちって・・・、ああ男女の営みのことかと美和子さんの言葉で僕は理解をした。今は男女に限らないのかもと、勝手に頭の中が騒ぎ始める。
「そんなことは・・・」
「そのことを自分でちゃんと認めないと、前へは進めないわよ」
「・・・」
頷く仕草を見せたが響子さんから言葉はなかった。
「恋愛しているお友達が羨ましかったのね?」
「はい、夫とはもうそんな関係ではないですから」
「愛を囁き合って身体を求め合うことだけが恋愛関係だなんて誰が決めたのかしらね。私は草臥れた夫だけれど健康のことなども考慮して彼の好きな料理を作っている時にとてつもない幸せを感じるの。それだって恋愛しているってことじゃない?私の夫も海外にいることが多くて、私が寝る時には『おやすみなさい』ってLINEを入れると時差はあるけれど向こうも『おやすみ』って返してくれて、時には電話でそれだけを言い合うこともあって、息子に言わせれば、それって生存確認だね、ってことだけれど、私はそれだけで安心してグッスリ眠れるの」
「海外にいる夫に『おやすみなさい』なんて伝えたことないかも・・・」
「インスタ映えって言うの?よく知らないし知りたくもないのだけれど、あれって他人の飾られた表情ばかりを見せつけられるじゃない。若い人に言わせればそうじゃないと反論されそうだけれども、私にはあんな虚像を面白がるなんて人生の無駄よね。それよりも相手との心地よい関係を誰に見せるでもなく自分たちで作らないでどうするのよ。結婚記念日を忘れられて悲しいとか、誕生日プレゼントがないからもう愛が冷めたとかって、くだらない話よね」
響子さんは美和子さんの熱い語りにただただ圧倒されていた。
数日後、僕たちの野球チームの試合に横手さんが選手としてバッターボックスに立った。それなので僕はベンチにいる。今日はユニホームを汚さずに済むなと、一人苦笑した。
あの日のうちに響子さんは自宅へと帰って行った。
「今夜寝る前に夫に電話をしてみます。何だか声が聞きたくなったから」
僕たちに帰りしなに言った響子さんの明るい声がまだ耳に残っている。横手さんには早くもファンの取り巻きが沢山できている。僕への声援では聞いたことも無い黄色い声というやつに少しだけジェラシーを覚えた。そんな光景を眺めながら僕は幸せを噛み締めていた。
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