第12話 子どもが欲しい

 僕が午前十時頃、自転車で交番へと向かっている途中に公園を通りかかると見覚えのある女性が一人、ブランコに座っていた。

 八嶋さんの奥さんの理央さんだった。

 午後二時を過ぎると子どもたちの声で賑わうその公園も今はひっそりとしていた。僕は思わず自転車を止め理央さんを観察した。理央さんは僕の存在には全く気が付く様子はなかった。以前の僕なら声をかけずに通り過ぎるところだが、美和子さんの悪く言えばお節介、良く言えば親切な行動に触発されたおかげで躊躇うことなく叫んでいた。

「理央さん、おはようございます」

「あら、陽ちゃんおはよう」

 理央さんは明るい顔で僕に手を振り近づいてくる。

「こんなところでどうしたのですか?」

「公園で大人が一人ってちょっと不審者よね」

「そんなことないですけれど」

「男性だったら通報されているかもね」

「まあ・・・」

 肯定も否定もできない僕だった。

「お姑さんと喧嘩でもしましたか?」

「いいえ、最近のお義母さんは美和子さんのお陰で外出してばかりだから喧嘩する暇もないのよ」

「それなら良かった」

「ただね、私に子どもができないから申し訳なくって」

「そんなこと・・・」

「この公園午後になると子どもたちが沢山遊んでいるでしょう。私の同級生たちもママになっているからその時間は来られなくて」

 僕に太刀打ちできる内容ではなかった。勇気を持って声をかけたことを少しだけ後悔していた。

 そこへ救世主のごとく美和子さんが近づいてくる。大袈裟でなく美和子さんが女神様に見える。

「あら、どうしたの?二人揃って」

「美和子さん、会いたかった」

 理央さんは美和子さんに抱きついた。

「今日は仕事お休み?だったら喫茶店に来ない?」

「はい、行きます。実は今、仕事はしていなくて」

「じゃあね、陽ちゃん」

 僕は二人に置き去りにされしばらく呆然としていた。さっきまで女神さまだと思っていた美和子さんがお姫様をさらっていく怪物のように見えてくる。そんな考えを振り払い、僕は仕事に集中しようと気合を入れ、自転車をこぎ出した。


 交番に到着すると今度はタクシーに乗った八嶋さんが近づいてきた。運転席から挨拶をされたので、今奥さんに会ったことを僕は話した。

「あっそう。ところで野球やったことある?」

 僕は小学生の時、少しだけ野球チームに入っていたことがあった。だが父が亡くなり金銭的理由で止めてしまった。いや、金銭的理由というのは自分への言い訳に過ぎない。野球好きの父の影響で僕も野球が好きになっていたから父が亡くなり一緒に楽しめなくなったことが止めてしまった本当の理由だった。

「子供の頃少しだけ・・・」

「山下さんのチームに俺も入ったのだけれど人数が思ったほど集まらなくて、良かったら入ってくれないかな。毎週参加しなくてもいいし、助っ人という形で時々顔を出してくれればいいから」

「ええ・・・」

 僕は躊躇していた。野球を止めてから野球関連のニュースさえ敬遠してきた。

「今日は仕事、何時に終わるの?」

「五時過ぎには・・・」

「だったら六時にキッチン富士に来てよ。詳しい話はその時で。断ってくれても大丈夫だから」

「はい、わかりました。伺います」

 断る上手い言い訳も見つからずに僕は行くことになってしまった。


 夕方、キッチン富士に入ると既に野球チーム関係の人たちで賑わっていた。

 山下さんを初め鷹山運輸社長の鷹山さん、リアンハイムに住む浜野君と久木田さんの顔もあった。野球をしてそうな人から野球には縁のなさそうな人まで様々な人たちがいた。

「陽ちゃん、よく来たね」

 野球チームの皆さんに快く向かい入れられ僕はここに来て良かったと心から思えた。

「君は子供の頃野球経験があるって聞いたけれど、ポジションは?」

 眼鏡をかけた真面目そうなスーツ姿の四〇代だろう男性が質問してきた。

「小学一年生の頃から始めたのですが五年生の頃には止めてしまったので・・・」

「どうして止めたの?」

 僕はこの質問が苦手だった。ちゃんと説明をしようとするとどうしても父親のことを避けては通れないからだ。でも、この街の人たちと触れ合うようになって僕は自分の気持ちにも正直になろうとしていた。

「父親の影響で野球を始めたのですが、九歳の時その父が亡くなり僕は野球を止めました」

「陽ちゃんのお父さんそんなに早くに亡くなっていたのか」

「はい、消防士でした。火災現場で・・・」

「それは大変だったね。でもお父さんは英雄だ」

「今は素直にそう思います。でも子どもの頃は何だか受け入れられなくて、父との思い出を封印していたというか・・・」

「それで野球も止めてしまったのか」

「ええ、野球ってお金もかかりますしね。母が病弱だったのもあってあまり家計に負担をかけたくも無かったですし」

 それは本当の話だった。だが母はそんな心配はするなと言ってくれていた。

「それそれ、俺たちも野球にお金がかかるのが問題だって話をしていたのだ。大人のチームはまだ何とかなっているけれど、子どものチームではお金がネックで参加できない子もいるらしく、それを何とかしたい」

 山下さんが熱く語る。

 そこに美和子さんと理央さんが店に入ってくる。その後ろからは喫茶みわの大森さんと見知らぬ女性がいた。

「遅くなってごめんなさい」

「いえいえ、忙しいのにありがとうございます」

「美和子さんも野球チームに?」

「野球なんてやったこともないしやらないけれど、今日は野球チームのマネジメントの件で大森さんと大森さんの奥さんにも来てもらったのよ」

「お前はどうして・・・」

 八嶋さんは理央さんがどうしてここに来たのか知らなかったようだ。

「今日は一日喫茶みわに居て手伝っていたのよ。それで私もついでに美和子さんについてきたわけ。あなたにも聞いて欲しい話もあるし」

「何?ここでないと駄目なのか?」

「家で二人だと話せないから・・・」

 八嶋さんの動揺は誰の目にも明らかだった。

「まあ、そんなに心配しないで。ところで少年野球チームの件だけれど、こちらの大森夫妻がオーナーになってくださるそうよ」

「本当ですか?」

「ええ、美和子さんからだいたいの話は聞きました。私たち夫婦には子どもがおりませんので、是非お役に立てればと妻とも相談しまして」

「千春さんはね、世界でも高名な画家なのよ」

 美和子さんの紹介に店中が騒めく。

「そんなにたいした者ではありませんよ。主人のお陰で好き勝手に絵を描いてきただけですから」

 その日、僕は心から皆さんと楽しく飲み食いができた。僕の野球への頑なな態度が自然な形で軟化されていくのを感じながら。


 夜も更けてくると明日仕事があるという人たちが一人二人と帰っていった。最後に残ったのは美和子さんと大森さん夫婦と八嶋さん夫婦、そして山下さんと僕だった。どうもこのメンバーが最後に残るよう美和子さんが仕組んでいたようである。

「あの、聞き難いことなのですが、大森さんご夫婦はお子さんを望まなかったのですか?」

 理央さんは恐る恐るという感じで大森さん夫婦に声をかける。

「そうよ。私は結婚だってしたくなかったのだもの」

「そうなのですか?」

「もう四十年も前の話ね。あの頃は結婚をしないという選択が許されなくて、嫌々お見合いだってしたのよ」

 理央さんの質問に嫌な顔もせず千春さんは答えてくれる。

「嫌々ですか?でもそれじゃあマスターが可哀そう」

「それは違うよ。私もね、結婚したくはなかったのだ。だけれど上司が結婚しないと出世もできないと言うしね。嫌々お見合いに行ったらこの人がいて・・・」

「私はね、ハッキリと言ったの。結婚はしたくありません。だから断ってくださいって。そうしたら誠司さん、だったら良い考えがあるって言ってね」

「この人が絵を描き続けたいと言うから、私がパトロンとしてお金を出せばいいのだと思ったからね。結婚すればそれが自然に見えるでしょう」

「パトロンですか・・・」

 僕は少しだけ戸惑ってしまった。

「結婚さえすれば誰も文句を言ってはこないだろうって。まあ、しばらくは子どもができないことを色々言ってくる人たちはいたけれども無視していたわよ」

「気にならなかったのですか?」

「そうね、誠司さんの海外赴任は4年くらいだったのだけれど、その後も独りで残ってフランスに長いこと住んでいたから。日本にいたらちょっとしんどかったかもしれないわね」

「遠距離結婚だったのですね」

「だから今でも仲が良いのよ。世間には結婚していると思わせていたけれど、私たちには結婚しているという意識ががなかったから長く続いたのよね。年々仲良くなっていったという感じね」

「寂しくはなかったのですか?」

 八嶋さんも会話に加わる。

「だってもともと結婚したくない二人よ。お互い好き勝手やって、それが幸せなのだから」

「利害が一致したってことですね」

「そうなのよ。私は誠司さんと結婚をしてとっても幸せでした」

「お子さんを欲しいとは思わなかったのですか」

「えっ、どうして?自分のことで精一杯なのにましてや旦那様のお世話さえしたくない人が子どもなんて考えたこともなかったわ」

 千春さんの発言に僕はハッとさせられた。女性は子どもがいて幸せを掴むのだと、思い込まされていた。

「子どもがいないと幸せになれないなんて大嘘よね」

 美和子さんの追い打ちに理央さんの思考が一瞬止まってしまったようだった。

「理央、どうした?」

「えっ、私・・・」

「子どもがどうしても欲しいのだものね」

 美和子さんの言葉に理央さんは頷く。

「はいでも、できないから・・・」

「わかった。明日二人で病院に行こう」

「違うの。そうじゃなくて・・・」

「不妊治療はしたくないの?」

「はい、矛盾していますよね。でも、どうしても不妊治療には賛成できなくて・・・」

 理央さんはそれまであまり口を付けていなかったワイングラスに手を伸ばした。そして一口飲む。

「美味しい。あっ、すみません。私、結婚するまで幼稚園で働いていました。子どもが大好きだから。結婚すればすぐに子どもができると思っていたのですができなくて・・・」

「まだ、二年じゃないか」

「うん、分かっている。でも若いうちにママになりたかったから」

「不妊治療が嫌なのはどうして?」

「幼稚園に通ってくる子に不妊治療で授かった子がいたのですが、その子のお母さんがすごく神経質で完璧な子どもを望んでいて・・・」

「稀にいるのよね。不妊治療に関係なく自分の子どもが優秀じゃないと許せない親が。何をもって優秀かなんてわからないのにね」

「そうですね。美和子さんの言うように不妊治療は関係ないですね」

「理央がそんなに思い詰めていたなんて、気が付かなくてごめん」

 八嶋さんは理央さんに頭を下げた。

「でも、俺もお袋だって子どもの話はしていないじゃないか」

「うん、でも、それがかえって何だか辛くて。いいえ、そうじゃない。私が勝手に自分の完璧な人生プランを作っていたから。不妊治療なんてしなくても若いうちに出産できるって信じていて、でもそれが難しことがわかってきて・・・」

「完璧な人生なんてあるのかしら」

 千春さんの言葉に理央さんも頷く。

「そうだ、さっき少年野球チームの話を聞いていて思い付いたのだけれど子どもを安心して預ける場所ってもっと必要よね。だったらそれ作っちゃおうか?」

「いいですね。確か喫茶みわの二階が空いています。あそこで何かできるのでは?」

 大森さんが美和子さんの話に乗る。

「あのビルは杉山さんがオーナーだから明日にでも相談してみましょう」

「杉山さんってまだビルのオーナーをしているのですか?」

 僕は以前、杉山さんがビルを手放す話を聞いていた。

「半分くらいは手放したのだけれど、まだかなりのビルを保有しているはずよ。あれから発破をかけたら元気を取り戻したからね」

「あっ、すみません。話を逸らしてしまって・・・」

「そうしたら理央さん、そこで働いてみない?」

「えっ、私が・・・?」

「そうよ。資格もあるのだから自分のために働くの。そして子どもができたらそこでまた考えればいいのだから」

「自分のために・・・」

 理央さんの顔がパッと明るくなる。

「私の知り合いに認可保育園の園長をしている人がいますから、早速話を聞きにいきましょうよ」

 千春さんも積極的に参加してくる。

「あの、私の妻も保育士だったので働きたいと言い出すかも」

 山下さんも嬉しそうに会話に加わる。

「それは良い。まずは色々と調べてお金の相談もしないとね」

 美和子さんはいつも以上に張り切っていた。

「少年野球チームのことも一緒に頑張りましょう。何だか楽しくなってきたぞ」

 大森さんの顔が十歳以上若返って見える。

「さっき、子どもがいなくて寂しくなかったかって聞かれたわね。がむしゃらに絵を描いていたから寂しいなんて微塵も感じたことがなかったの。でもね、絵がお金になるようになって、でもそのお金の使い道が無くてね。そんな時ふと思ったのよ、子どもでもいたらって、だから今回私のお金を活用できる場ができて嬉しいわ」

「そうだね。子どものいない私たちが少しでも資産を残すと面倒だからね」

「あの・・・ずっと気になっていることがあるのですが・・・」

「どうしたの?理央さん」

「少年野球チームという名前が気になってしまって」

「そうね、まだチーム名が決まっていないから」

「そうじゃなくて、少年少女野球チームではダメですか?私、子どもの頃、野球をしていたから・・・」

「えっ、そうなのか?どうして言ってくれなかったの」

「だって、聞かれなかったし、言う機会がなかったから。申し訳ないけれどあなたより私の方が上手いかもよ」

「そんな・・・」

「何だか私もそう思う」

「きっとそうね」

 その場に居た誰もが肯定すると八嶋さんは頭を抱えた。笑い声が店に響き渡る。

「そうよ、野球チームが男性だけなんていけないわ。子どもチームも大人チームも男女混合でいきましょうよ」

「いいですね。それならメンバー集めも苦労しないかも」

 山下さんも賛同した。

 僕はここにいる人たちのパワーにまたもや圧倒されていた。

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