第9話 底辺労働者の苦悩
杉山さんが大家のリアンハイムから再び窃盗の通報があり僕は駆け付けていた。押し入った形跡はなく鍵をかけずに買い物に出たほんの数十分の間の出来事だったそうだ。その住民は杉山さんに払うための家賃を盗られたという。先日このアパートに出動した時と似た状況だった。犯人の痕跡はなく盗られた金額も少ないため警察の動きは芳しいものでは正直ない。
「陽ちゃん、わざわざすまないね」
「杉山さん、いらしていたのですね」
「あの・・・ちょっと・・・」
「何でも言ってください」
「今ここでは言えないことがあってね。悪いけれど仕事が終わったら僕の家に来てくれないかい?」
「美和子さんが一緒の方がいいですか?」
「そうしてくれると助かる」
次の日の午前中、美和子さんと僕は杉山さんを訪ねることになった。
「本当にすまないね。美和子さんも陽ちゃんも」
「いいのよ。窃盗事件ですってね。何だか物騒よね」
「実はそれなのだけれどね。あれ窃盗事件ではないと思うのだ」
「窃盗事件ではない?」
「そう、虚偽というのかな」
「前の時もそうなのですか?」
「僕の勘だから、何とも言えないのだけれど」
「どうしてそう思われたのですか?」
「あの時も家賃が盗られたって言っていたでしょう。家賃を払うお金もないのかもしれない」
「えっと確か被害者は久木田さんでしたっけ、働いてはいるのですか?」
「引っ越し業者で働いていたらしいのだが腰を悪くしてしばらくは休んでいるとか」
「いくつくらいの人なの?」
「確か三十九歳だったかな」
「あらまだ働き盛りね」
「それなのに怪我で働けないとは大変ですよね」
「正規社員ではないらしいから傷病手当金だって出ないからね。あのアパートはそんな人ばかりだから」
「杉山さんは家賃を滞納しても待ってくれるって聞いたことがあるわ」
「そんな善人ではないのですが多少は大目にみています」
「まずは、その久木田さんから詳しい話を聞かないことには埒が明かないわね」
美和子さんの提案を杉山さんは待っていたようだった。
「僕だけだと何だか不安でね。一緒に話しを聞いてはくれませんか?」
「勿論よ。これからリアンハイムに行きましょう」
そうして杉山さんと美和子さんと僕は久木田さんの部屋に向かった。
久木田さんの部屋は整然としていた。最近流行りのミニマリストというのかきれい好きでもあるようで余計な物は一切置かれていない。久木田さんは僕の顔を見て気まずそうな表情をしていた。
「初めまして、美和子と言います。杉山さんとはお友達でね。陽ちゃんは知っているわね。交番のお巡りさん。でも安心して逮捕しに来たわけではないから」
その言い方だと安心するどころか余計に警戒してしまうのではないかと僕は心配になった。
久木田さんが腰を痛めているのは本当のようだった。動くたびに顔をしかめている。
「いつ腰を痛めたの?」
「先月です」
「お医者さんには行ったの?」
「いいえ、お金が無くて」
「どうしてそんなにお金が無いの?」
直球過ぎる言い方に慣れているはずの僕も少し戸惑う。杉山さんはもっと驚いていた。
「先月仕事をしている時にお客さんの荷物を壊してしまいまして弁償したので・・・」
「何それ、おかしいじゃないの、その会社は保険に入っていないのかしら」
「そうですね、普通そういうのは保険でカバーされるはずです」
美和子さんも杉山さんも怒っていた。
「会社に言ったらもう仕事が貰えないので自分で払いました」
「そんな・・・そもそもどうしてお客さんの荷物を壊すことになったのかしら」
「箪笥を一人で運んでいて落としてしまって・・・」
「箪笥って洋服箪笥?そんなの一人で運べるものなの?」
「人手が足りなくて仕方なく」
「壊したってどの程度よ」
「ちょっと傷が・・・」
「どんな傷よ」
「・・・」
「きっと大した傷ではなかったのね」
「でも、お客さんは怒ってしまって、その場で二万円払ったのですが許してもらえず・・・」
「どんな箪笥よ。どうせ安物でしょう」
美和子さんの決めつけた言い方は当たっているようで久木田さんは何も反論しなかった。
「引っ越し業界自体が大変なことになっているようだからね。料金も相場より高くなる一方だと聞くし、お客さんだって困っていると聞いたことがあるよ」
「だとしてもどうして働いている人に皺寄せがくることになるのよ。何だかおかしいじゃないの」
その場を取り繕うとした杉山さんの発言は美和子さんに火をつける形になった。
「雇われている立場は弱いから」
「人手不足なのにどうして強く出られないのよ」
久木田さんには言葉が無かった。本来であればその場で解決する問題ではなく会社に持ち帰って処理をすれば久木田さんの財布から弁償することはなかったはずである。でもそれが出来なかった理由は僕にもわかる。雇い主は顧客とのトラブルを嫌う。そしてトラブルを招く従業員はもっと嫌われるのだ
「何だかおかしな時代になりましたね。お客さんという立場が偉すぎるのか・・・」
杉山さんの発言に僕は頷いた。
「それでいくら払ったの?」
「トータルで十万円ほどです」
「行くわよ」
美和子さんは強引に久木田さんを立たせた。
僕たちはタクシーを呼び久木田さんに弁償を強要した相手の家に行った。
雑居ビルの一室がその現場だった。驚いたことに相手の男性は高そうなスーツを着た壮年で物腰の低い紳士だった。職業は司法書士だそうで知的なのにどうして因縁をつけてきたのか不思議だった。僕たちは身分を偽りなく述べた。見せてもらった箪笥の傷は美和子さんが除菌シートで拭くとあっけなく落ちた。傷ではなくただの汚れであったようだ。
司法書士の男性は開業したばかりでお金に困り久木田さんから巻き上げたようである。
「すみませんでした。どうかこの件は内密にしてください」
「ちゃんとお金は返してくれるのね」
「はい、今は二万円しか所持金がありませんが残りのお金も返します」
「いくらお金に困っているとはいえ、弱い立場の人に強く出るのは人としてだめじゃないの」
美和子さんの説教が始まった。
「でも、引っ越しの時、私も酷い目に遭いまして・・・」
その男性が言うには引っ越し業者を探すのも大変だったらしく費用も予定よりも高額だったそうで、その上作業員の人数は約束よりも少なく箪笥の他にも落とされた物があったという。久木田さんもそれには頷いていた。
「やっぱりその引っ越し業者が悪いのね」
これからその引っ越し業者に乗り込もうとする美和子さんを宥めて、僕たちは一旦久木田さんのアパートに戻った。
久木田さんは戻ってきたお金をそのまま杉山さんに家賃として渡そうとしたが杉山さんは受け取らなかった。
「まずは、その腰を直さないとね」
少し落ち着いた美和子さんは今後のことを話し合おう提案した。
「私の知り合いの病院に行きなさい。紹介してあげるから」
「保険証が無くて・・・」
「はあ、だったらまずは役所ね。でもやっぱり治療が先かな・・・」
美和子さんはそれからあちこちに電話をかけていた。
「明日一緒に病院に行って、その後役所で手続きをしましょう」
「一緒に行ってくれるのですか?」
「だって一人でできるの?できないから今まで放置していたのでしょう」
「はい、すいません」
「本来なら公的な立場の人や民生委員の仕事なのかもしれないけれど、あなたみたいな少しは仕事もできて健康そうだと相手にはされないでしょうからね」
確かに久木田さんのような底辺労働者に手を差し伸べてくれる人は誰もいないのかもしれない。
「美和子さん、私からも礼を言います。私がもっと早くに気が付いて行動していれば良かったのですが」
人は多くの人から手を差し伸べられることで生き続けることができるのだと僕はまたしても気付かされた。
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