第8話 家族とお金

 僕が交番勤務を終え自転車で警察署に戻ろうとしていると小学生二人に自転車を止められた。

「お巡りさん、助けて」

 見覚えのある子どもたちだった。

「芳恵さんところの・・・」

「ねえ、ママが大変なの」

 芳恵さんは以前、ご主人の浮気を疑って塞ぎ込んでいたことがあった。またそうなのか。

「わかったからちゃんと話してごらん」

 僕は子どもたちの話を聞いた。

「お祖母ちゃんの家が壊されてしまうの。叔父さんに」

「えっ、どういうことかな」

 どうも芳恵さんのご実家で何かが起こっているらしかった。

「少しだけ公園で遊んでいてくれないか。すぐに戻ってくるから」

 僕はひとまず警察署へ行き仕事を終えてから戻ってくることを約束した。僕だけでは解決できそうもないので、勿論、美和子さんに電話を入れる。

 子どもたちが遊んでいる公園に行くと美和子さんは既に来てくれていた。

 僕たちが家に着くと思いの外明るく芳恵さんは歓迎してくれた。子どもたちは二階に上がり芳恵さんから詳しい話を聞くことになった。

「私の父が癌で闘病中でして」

「それは大変ね」

「弟が一緒に住んでいるので私は別段・・・ただ」

「何があったの?」

 こういう場は美和子さんに任せることに限る。

「弟が実家を壊してマンションを建てると言っていて」

 それで子どもたちは叔父さんが家を壊すと言っていたのか。

「実家がなくなるのは寂しいわね」

「はい、何だか複雑で・・・今の母は継母で弟とは異母姉弟なので、実の母の思い出がなくなると思うと・・・」

 何十年経っても実の母親という存在は大きい。

「確か芳恵さんのご実家は駅前にあるのよね」

「はい、先祖からの土地に父と実の母が家を建てました」

「今あの辺りの地価は上がっているからマンションでも建てて節税対策しないと弟さんが大変になるものね」

「はい、弟もそう言っていました。父もそれを望んでいて」

「あなた一人が反対だと」

「そうです。でも、もう話は進んでいて取り壊す段取りが組まれているとか・・・」

「弟さんとは仲が良いの?」

「それまでは良かったのですが、家を壊すと聞いて私が声を荒げてしまって。以来気まずいままで」

「本当はどう思っているの?」

「本当は、もう古いですし壊す時期だとはわかっています。継母からも良くしてもらって恨むことなんてないはずなのに・・・」

「何かあったの?」

「母の仏壇を嫌がっている継母の姿を子どもの頃に見てしまって」

「お義母さんも苦労されたのね」

「えっ・・・」

「あなたが何歳の時嫁いでこられたの?」

「八歳です」

「懐くのに時間がかかったのではない?」

「はい、母が亡くなって二年目だったのでまだ受け入れるどころではなくて。その頃祖父母も一緒に住んでいて『お母さんなんていらない』と泣いた覚えがあります。継母の前で」

「弟さんとは何歳離れているの?」

「十四歳です」

「お義母さんは弟さんを産むことを躊躇っていたのではなくて?」

「そう言えば祖母から言われてやっと決意していたみたいです」

「あなたのために暫くは産まないことを選んだのではないかしら」

「今思えば、そうかもしれません」

「弟さんは可愛かったでしょう」

「はい、弟が産まれて嬉しかったことを覚えています」

 芳恵さんに心からの笑顔が戻ってくる。

「人間って、不思議よね。自分の苦しみを忘れることはできないけれども他の人の苦しみは忘れてしまう。他の人の幸せは目につくのに自分の幸せには気付かない」

「継母はずっと私の母の思い出の詰まった家に住んでいたのですね」

「仏壇だって大切にしていたのでしょう?」

「はい、一度だけですあんな継母を見たのは。それからはずっと大事にしてくれていました」

「お義母さんも最初はあなたの本当のお母さんのお位牌を見てどうしていいのかわからなかったのよ」

「今思えばまだ若かったのによく私なんかの母親になってくれました。感謝しないといけませんね」

 誰かの携帯電話が鳴る。

「あっ、弟からです。ちょっとすみません」

 芳恵さんは電話を持ってキッチンの方に立った。

 戻ってきた芳恵さんの表情はどこか清々しかった。

「継母は私が反対しているのならマンション計画は中止だって言っているらしく、弟も無理強いはしないと謝ってきました」

「お二人とも優しいわね」

「はい、だから言ってやりました。マンション計画に賛成だって」

「それは良かったわね」

「色々思い出していたら、もうあの家は必要じゃあないことに気が付きました。私には帰る場所があるのですから」

「そうよね。家具や家が思い出ではなくて家族が思い出だもの。家族がいる場所が帰る場所よね」

「はい、またまた美和子さんのお陰です。陽ちゃんも」

 僕はまたしても何もしていない。だがこの場所に居られただけでも何だか価値あることだと思えた。

「あの、もう一つお話を聞いてもらえますか?私のお友達の件でご相談があります」

 一件落着と思ったら新たな問題が発生してくる。人の営みとはそういうものなのだろう。面白がってはいけないのだが、張りきっている自分がいた。きっと美和子さんにはバレバレだろうな。


 後日、美和子さんと僕はいつもの喫茶店で芳恵さんとそのお友達と会った。

「初めまして美和子です」

「秀美といいます。今日はすみません」

「いいえ、悩みは一人で抱えていては駄目なのだから、気にしないで」

「はい、ありがとうございます」

 芳恵さんの友達は少しふくよかで温かい印象の人だった。

「父親が先月亡くなりまして」

「大変でしたね」

「兄と二人兄妹なのですが私が一人で介護をしました。母は数年前に亡くなっています」

「お兄さんは遠くに住んでいるの?」

「いいえ、実家で父と暮らしていました。兄嫁が父と折り合いが悪く出て行ってしまいましたが」

「それであなたが介護を引き受けていたのね」

「父がまだ動けるうちは昼間だけ掃除や洗濯をしに行っていましたが動けなくなってこの一年は泊まり込んでいました。私には子どもがいないので夫も理解してくれて、時々一緒に泊まってもくれて」

「お兄さんは何もしなかったの?」

「はい。それなのに相続で・・・」

 秀美さんは暫く黙ってしまった。美和子さんは優しい目をして次の言葉を待つ。

「父が死んで兄は兄嫁と子どもたちを連れて戻ってきたのです」

「えっ、嘘。何それ、何だかお父さんが死ぬのを待っていたみたいじゃない」

「そうです。そして、家の相続を主張していて」

「そんなの虫が良すぎるでしょう」

 芳恵さんも声を上げる。

「遺言書は?」

「いいえ、ありませんでした」

「それだと全部お兄さんに持っていかれてしまうのかしら」

「秀美さんが印鑑を押さなければ話は進まないわね。遺留分を主張することもできるし」

「はい、それで悩んでいまして」

「癪よね。介護もしなかった人に財産が全部いってしまうのは」

「はい。でも、十年以上兄嫁は両親の面倒を見てくれていました。介護を拒否したのはむしろ父の方で」

「あなたはどうしたいの?」

「仕事を辞めて介護をしてきたので何だか気が抜けてしまって・・・」

「これからの自分の人生だけを前向きに考えることが大切だと思うわ」

「はい、夫もそう言ってくれて。実家のことやお金の話はもう忘れて好きなことを見つけろと」

「私の知り合いでね、やはりお兄さんが実家を相続した人がいるのだけれど、遺留分の六百万円を手にしてとっても後悔したらしいの」

「お金を貰ったのに後悔?」

 僕の口から思わず言葉が漏れていた。

「その時はね、お兄さんが実家を相続するのだし自分はお兄さんと違って大学も行かずに親からは何もしてもらえていなかったって思ったらしいの。だからお金を貰う権利はあると。でもね、お兄さんがその家を維持するのがどれだけ大変だったか後から気が付いたというのね。ご両親は国民年金しか収入がなかったのだし、病気のお子さんもいたから」

「近所付き合いだって引き受けてくれていたはずですね。それに実家を守るって想像以上に大変だろうし」

 秀美さんがしみじみと言う。

「今は多くの人が相続についての知識があるでしょう。相続対策やら法律に詳しくなるのは良いことではあるけれど、それよりも人の心を重んじて繋がりを大切にして欲しいって私は思うのよね」

 美和子さんは心底そう思っているようだった。

「お金って存在が時に人の心を惑わせてしまうから。損得勘定ばかりしていると、本当に大切なものが見えなくなるのよね」

「どうせ遺留分といっても数百万円でしょうし、兄たちにそんなお金はないはずです。それに父が元気な頃は私はお小遣いやら生活費だって十分に貰っていましたら、何も言わずに印鑑を押そうと思います」

 秀美さんは晴れやかな顔をして店を後にした。

 

 父が亡くなり母は保険金を手にしていた。すると父の疎遠だった弟が、そのお金を充てにして家を訪ねて来たことがあった。母は義弟にお金を渡すことを拒み縁が切れていた。僕はそのお金があったから大学まで進学できたのだった。

 母は親戚を寄せ付けずに一人で僕を育てることを選んだ。しかし、死を目の前にして母は自分の行いを悔いていた。

「陽介、ごめんなさいね。あなたを一人にしてしまう・・・」

 それが最後の言葉だった。今になって僕はその言葉の意味が理解できた。

 でも僕は母親を責めることはない。父が亡くなり母はそれまで苦手であった近所付き合いを大切にしていた。団地の人たちは勿論、商店街の人たちとも仲良くしていた。僕の学童保育の先生には何でも相談していたようだし頼ってもいた。そう言えばその学童保育の先生は美和子さんに面影が似ている。

 今の僕があるのはそういった多くの人たちのお陰であることに思い至る。それだって母のお陰だ。

「母さん、僕は一人じゃないよ」

 空に向かって僕は呟いた。

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