第2話 人様の淹れたお茶

 僕の背中は美和子さんの気配をずっと前から察知していた。だが、ここで振り向くとややこしいことになりそうなので無視を決め込んだ。

 小学校から幼馴染の涼子が突然交番にやって来ていた。涼子は同窓会の幹事を引き受けたらしく僕の住所を探し回ったという。母親が亡くなり団地を引き払ってしまっていたので探すのが大変だったと文句を言われたところだ。涼子は子どもの頃から僕へ文句ばかりを言ってくる。

「携帯電話の番号も変えたでしょう。その上どうして引っ越し先を教えてくれなかったの?」

「ごめん。寮だから言い難くて」

「どういう理由よ。わかんない」

 確かに言い難いという言い方は間違っている。涼子は僕の母親が亡くなった時も僕の側にいてくれた。お互いに家族の話ができる唯一の仲間であったはずなのに、僕は何故だか涼子を遠ざけていた。

「昔の友達とは会いたくないの?」

「そうじゃないけれど・・・」

 会いたくない理由はないのだが、会う理由が僕には見つけられなかった。何より今は警察官という仕事に精一杯集中したかっただけだった。

「まあいいわ。番号言って」

 強引に僕の電話番号を登録して涼子は交番前からいなくなった。

「今のどなた?」

 やっぱりといった展開に僕の心はむしろ落ち着いてくる。

「美和子さん、こんにちは」

「今の子、陽ちゃんの彼女?」

「いえいえ、ただの幼馴染です」

「あらそうなの。つまらない」

「つまらないって・・・」

 美和子さんは買物帰りとかでその日はすぐに交番前から去っていった。


 数日後、涼子が沈痛な様子で電話をかけてきた。

「どうしたの?」

「実はお祖父ちゃんとお祖母ちゃんのことで」

 涼子の母方の祖父母がこの街に住んでいるという。ただ、涼子の母親との関係が悪く、かなりの期間疎遠だったそうだ。僕を訪ねてこの街に来たついでに涼子は祖父母宅を訪ねたらしい。

「何て言うのかお祖母ちゃんが認知症になっていてお祖父ちゃん一人で介護をしていて、全然昔のように元気なお祖父ちゃんではなくなっていて・・・」

「二人暮らしなのか?」

「そう、母の妹は遠くに嫁いでいるから」

「よく聞く老々介護というやつか」

「うん、テレビとかでは聞いていたけれど、私の身近にあったとはね」

「大変だよな」

「母はお祖父ちゃんと喧嘩をして家を出ているからもう関係がないって言っていて」

「そおか、明日非番だからそれとなく様子を見に行ってみるよ」

「ごめんね。お願い。頼れるのは陽介だけだから」

 小学生の時、僕と涼子は二人だけで家に帰ることも多く、下校途中の公園で話し込んだりしていた。男女という垣根を認識する前の話で僕は涼子になら家族の話ができた。それは涼子も同じだったようで、僕たちはお互いの家庭事情をそしてそれに対しての自分たちの思いを理解し合っていた。僕の家庭が底辺生活ならば涼子の家庭はセレブ生活だったので月とスッポンなのだが、不思議と馬が合った。今にして思えば境遇が違い過ぎるからこそ理解し合えたのかもしれない。


 夜勤明けのお昼近くに僕は涼子の祖父母宅を探しに住宅街を歩いていた。すると五メートルくらい前を見覚えのあるおばさんが歩いているのを発見した。少し嫌な予感がしてくる。気付かれないように僕は思わず足を緩めた。その動作がいけなかったのか美和子さんは大仰に振り向いてすぐに駆け寄ってきた。

「あら、陽ちゃんどうしたの?こんなところで」

「ちょっと知り合いの家がありまして」

「あら、どなたの家よ」

 僕は一瞬答えに詰まったが思い切って白状することにした。

「実は原島さんという家を探していまして」

「あら、その家なら向こうの通りよ」

 さすがに美和子さんはこの街を熟知している。

「お爺さんとお婆さんの二人暮らしで最近お婆さんが認知症なのよね」

「そこまでご存じなのですか?」

「そりゃあね。で、どういう関係なの?」

「幼馴染のお祖父さんとお祖母さんでして」

「ああ、この間の子の」

「何でわかるのですか?」

「だって、友だち少ない陽ちゃんでしょう。他に親しい人なんていそうもないじゃない」

 少し当たっているので反論の余地もなかった。

「じゃあ、案内するわね」

「えっ、お忙しいでしょうから・・・」

「遠慮しないの」

 遠慮じゃなくって、と思ったが一人で訪ねる勇気はもともとなかったので少しだけ、いやとっても助かった。

「あのお祖母さんも昔は優しくて明るい人だったのよね。それがお祖父さんと娘さんが喧嘩をしてからはあまり外へは出てこなくなってね」

「よく知っていますね」

「まあね」

「どうして喧嘩をしたかは、ご存知ですか?」

「あのお爺さんさんちょっと頑固だからね。お婆さんも娘さんとの間に入って右往左往していたのよね。喧嘩の原因は嫁ぎ先のことかしらね。よくは知らないけれど」

 涼子の父親は代々の資産家でパチンコ店や不動産業を営んでいた。涼子の母の両親はその業務内容が気に入らず結婚自体を認めていなかったようだ。僕もそのことは聞いていた。

「あのお爺さん元警察官だからね。あなたと同じ」

「そうでしたね」

 僕と涼子は小学生の頃、自分たちの両親の仕事について色々な意見を言い合った。僕の父は消防士だったのだが火災現場で救助に行って帰らぬ人になった。僕の父の仕事を立派だと涼子は言ってくれたが、当時の僕はそうは思えないでいた。涼子は自分の父親の仕事を毛嫌いしていて僕のことを羨ましがった。僕の方はむしろただお金持ちの家に生まれた涼子がひたすら羨ましかった。そんな思いをお互いにぶつけ合うことでいつしかそれぞれの境遇を受け入れ、前向きに生きられるようになったのだった。

「涼子の家の仕事をお祖父さんが理解していないって僕も聞いています」

「凄いお金持ちに嫁いだのよね、娘さん」

 情報ツウな美和子さんに圧倒されつつ、涼子の祖父母宅に向かった。

「昔はもっと手入れの行き届いた庭だったのよ。この辺りは私の住むところよりかなり前から住宅があって立派な庭の家も多くてね。でも最近は空き家が目立つわね。何だか暗い雰囲気だし」

 確かにこの辺りは美和子さんの言う通り草木が育ちすぎて鬱蒼としているせいか、暗く寂しい印象だ。

 涼子の祖父母の家の松の木も剪定をしていないせいか荒んで見えた。

「ごめんください」

 案の定、美和子さんは何の躊躇いもなくインターフォンを押した。

「セールスはお断りだ。帰ってくれ」

「ほら、陽ちゃん名乗って。お巡りさんだって」

「えっ、でも・・・」

「じゃないと中へ入れないでしょう」

 僕は抵抗することを諦め美和子さんの言う通りにした。

「警察の者です。開けていただけませんか?」

 しばらくして戸が開いた。僕はそう名乗ったものの何も証明する物を持ち合わせてはいなかったのだが、お祖父さんはすんなり僕たちを居間に上げてくれた。

「涼子から聞いているよ」

 涼子が僕のことを話してくれていたらしい。

「だったら話は早いじゃない」

 美和子さんの言葉にお祖父さんは怪訝そうな顔をする。

「あんたは誰だ?」

「あら嫌だ、お忘れかしら同じ町内の矢代です」

「ああ、あのうるさい元気な人か」

「うるさいは余計よね」

 お祖父さんに僕は同意するも口には出せない。

「あら、意外と片付いているわね」

「意外とだと?失礼な人だな」

「お互い様です」

 僕は二人のやり取りを黙って見守ることしかできなかった。

「介護認定は受けたのですか?」

「そんなの必要ない」

「それはダメよ。お爺さんのためではなくお婆さんのためです」

「あんたにお爺さんと呼ばれる筋合いはない」

「あら、ごめんなさい」

 決して悪びれた様子のない美和子さんだった。

「それじゃあ、このままではご主人の身体も心も持ちませんよ。そうなると奥さんも困るはずです」

 美和子さんの強い口調に黙るお祖父さんだった。

「涼子さんも心配しています。二人だけで解決できることではないのでは・・・」

 僕も勇気を振り絞って意見を言った。そして勝手にお茶を淹れ始めた。お祖父さんは僕の行為を黙って見ていた。

「この子の淹れたお茶はとっても美味しいから」

「どうぞ」

 お祖父さんは黙ってお茶を飲んだ。

「美味い」

 小さい声だがハッキリと聞こえた。お祖父さんの表情が少しだけ緩むのを僕は見逃さなかった。

 気が付くと美和子さんは家中を見て回っている。お祖父さんはそれに気が付いて最初は止めようとしていたが、美和子さんのパワーに抗っても無駄だとわかったのかすぐには椅子から立たなかった。

「陽ちゃんすぐに救急車呼んで」

「えっ、どうしたのですか?」

「いいから早く。お婆さんの様子が変よ」

「はい、すぐに」

 僕は慌てて自分の携帯から救急車を呼んだ。

 寝室を覗くと、お祖母さんが頭から血を流してベッドで苦しそうにしていた。

 病院には涼子と涼子の両親も駆けつけてくれた。お祖母さんはお風呂場で転んでしまい頭を打ったそうだ。幸い怪我は軽かった。ただ、お祖父さんも一緒に倒れたらしく腰を打っており精密検査をすることになった。医者の話だとお祖父さんの方が重症らしい。

「ありがとう。陽介がいなかったらどうなっていたか」

 涼子がしおらしく僕に頭を下げた。

「僕は何もしていない。美和子さんのお陰だよ」

 美和子さんはお祖父さんの動きが普段より悪いことも見抜いていたようだった。情けないことに僕にはその観察眼はまだなかった。

 僕は美和子さんを涼子に紹介した。

「陽ちゃんが涼子さんから言われて訪ねたからじゃないの。私はたまたま居合わせただけで・・・」

「でも、美和子さんがずけずけと寝室まで覗いてくれたから・・・」

「ちょっと、その言い方何だか気に入らないけれど・・・」

「とにかく、本当にありがとうございました。お二人には感謝しかありません」

 涼子の両親からも頭を下げられ、僕たちはその場を退散した。


 帰りのタクシーの中で僕は美和子さんに確認をした。

「美和子さん、僕が涼子のお祖父さんの家に行くことを知っていたのではないですか?」

 何となくであるが、あの時、美和子さんと出くわしたのは偶然ではない気がしていた。

「バレたかしら。実は陽ちゃんと涼子ちゃんが話していた日の夕方、原島さん宅から出てきた涼子ちゃんを見たの。原島さん宅のことは少し前から気になっていたので時々様子を伺っていたのよ。それであなたの非番の日を待ってあそこで張り込んでいたわけ。でも、良かったのよ。いつもなら洗濯物が外に出ているはずが、出ていないじゃない。こんなに天気がいいのに。だから、何かあったなって思っていたの。陽ちゃんが来なくても飛び込む覚悟はしていたのよ」

「僕を待っていたのですか?」

 美和子さんの洞察力と行動力には脱帽だったが、僕のことをどこまで知っているのか、少し怖い気もしてくる。

「どうしてそんなに近所に感心があるのですか?」

「もう、身近な人が亡くなるのを見たくはないからね」

 美和子さんには珍しくその後しばらくは言葉がなかった。心を閉ざしている様子でその態度は頑なだった。僕は黙っていてあげることしかできないでいた。


 数日後、涼子から電話があり駅前のファミリーレストランで会うことになった。

「あの時は本当にありがとう。お陰様で二人を引き取ることになりました」

「そうか。良かったね」

「引き取ると言っても、お祖母ちゃんは認知症のケアができる施設だし、お祖父ちゃんは腰の手術であのまま入院することになったから私たちの生活は変わらないのだけれどね。でも、いつでも会いに行けるし、何より母がお祖父ちゃんの看病を甲斐甲斐しくしているから笑っちゃうけれど」

「家族が仲良くなれたということだね。本当に良かったよ」

「うん、陽介に相談して良かった。お祖父ちゃんたら陽介のお茶が美味しかったって何度も言っているわよ。人が淹れてくれたお茶を飲むのはお祖母ちゃんがあんな風になって以来らしいから」

「何度も言うけれど、僕は何もしていないよ。オロオロと美和子さんに言われて救急車を呼んだくらいだし。一人だったらお祖母さんのことに気付かずに帰っていたかもしれない」

「あの美和子さんという人、何だか凄いわね」

「でしょう。何だかこの街の救世主的な人だよ」

「母が言っていたのだけれど、お子さんを亡くされているはずだって」

「嘘、本当に?」

「知らなかったの?」

「そう言えば、美和子さんのこと何も知らない」

「警察の誰かに聞くとか調べるとかすればすぐにわかったのではないの?」

「だよね。迂闊だった」

「身近にいる人のことを人に聞いたり調べたりしないのって、陽介の良いところよ」

 涼子と別れて寮に向かって歩いていると美和子さんとばったり出くわした。

「あら、陽ちゃん元気?」

「はい、美和子さんこそ・・・」

「どうしたの?暗い顔をして」

「いいえ、何でもありません」

「原島さん宅も空き家になってしまうわね」

「そうですね」

「あの辺りの古いお屋敷がどんどん空き家になってしまって、寂しいのと治安が悪くなるのとで問題は山積みよ」

 美和子さんはこの街を心から心配していた。

「美和子さんはこの街が好きなのですね」

「勿論好きだけれども、住んでいる街なのだから少しでも住みやすくしたいって思うのは当たり前でしょう。街というより人が好きなのよね」

「はい、でも街にも人にも無関心の人の方が多いから」

「そうよね。生活に追われていたら無関心になってしまうのも当然だしね」

 だからこそ僕たち警察官は街にも人にももっと関心を持って犯罪や事故を未然に防ぐ努力をしないといけないと思った。だが、それができない現実もある。

「警察官としての陽ちゃんができることとおばさんの私ができることをそれぞれがしていくしかないわね」

 美和子さんの言葉に僕は少しだけ勇気づけられた。そうだ、できることをしていこう、それしかないのだから。

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