僕は底辺生活者のお巡りさん
たかしま りえ
第1話 理想的な家族
僕が生まれて初めて警察官として臨場したのがこの住宅地だった。都心に通うには電車とバスを合わせて一時間三十分、ファミリー世帯と高齢者だけの世帯が混在しているごくありふれた住宅街だが、空き家もチラホラあり少しだけ寂れた印象があった。
通報してきたのは七十代の女性で深夜なのに隣の家が騒がしいとのことだったが僕たちが駆け付けた時にはその家も周辺も静まり返っていた。
念のためその家のインターフォンを鳴らす。
「あら、警察呼んじゃったのね。あのおばあさんそそっかしいのだから」
五十代のやたらと声の大きい陽気な女性が出てきた。先輩が対応し、ただの夫婦喧嘩とわかり帰ることになった。するとその時、先輩の後ろにいた僕はその女性に腕を掴まれた。
「あら、新人さん?よろしくね」
微笑みかけられ僕の背筋はビクッとなった。先輩は僕の顔をじっと見つめて意味ありげに肩を叩いた。きっと、この地域では有名な主婦なのだろうと直感したが、深くは考えないようにした。それよりも僕はその家の隣、通報してきたおばあさんの家ではない方の隣家が気になっていた。
以前は季節の花でいっぱいだったと思われる庭。玄関前に無造作に放置されている子どもの玩具。閉めきった雨戸からは家族の暗い様子が想像できる。僕の気のせいだといいのだが、何だか胸騒ぎがしていた。
夜勤明けの正午過ぎ、寮に真っすぐ帰る気にはなれず、その胸騒ぎを確かめたくてその家に向かった。案の定雨戸は閉められたままで家族の温もりが全く感じられない。だがそれだけでは何もすることができない。歯がゆさを振り切り、すぐにその場から離れようとしたその時、誰かが僕の肩を掴む。振り向くと昨夜の女性がニッコリ微笑んでいた。今度は背筋がゾッとする。
「あら、昨夜のお巡りさんじゃない。やっぱり気になるこの家?」
私服だと気付かれないと高を括っていたが、このおばさんには通用しなかった。
「いやあ、そういうわけではなくて。たまたまここを通りかかったものですから」
僕はしどろもどろに言い訳をしていた。
「3か月くらい前からかしらね様子が変になったのは」
僕の話を聞く気がないのか、勝手に話を始める。
「きっとね、旦那さんが浮気をしているのよ」
「あの、僕はそろそろ・・・」
「民事不介入ってやつよね、どうせ警察は。でも、知らないわよ、殺人事件に発展しても」
「まさか」
「何言っているのよ。最近の殺人事件の定番は家庭内で発生しているじゃない」
「・・・」
僕は返事に困った。確かに一理ある。家族間や恋人同士のトラブルは増えている印象だ。
「あっ、自己紹介していなかったわね。この街に五十年以上住む矢代美和子と申します」
「近松陽介です」
「陽ちゃんね」
一人で勝手に僕との距離を縮めてくる。人見知りの僕には真似のできない芸当だ。
「ここの奥さんずっと塞ぎ込んでいるのよ。どうしたものかしらね」
どうしたものかと言われても、赤の他人だし、警察官にいきなり尋ねられても困惑するだけだろうし、僕には成す術がなかった。
そこへ小学生が二人連れ立って帰ってきた。
「あら、お帰りなさい」
二人とも頷くだけで覇気がすっかり失われている。姉の方が玄関でチャイムを押したがしばらくたっても誰も出てくる気配がない。
「あら、いやだ。どうしたのかしら」
美和子さんは二人のところに駆け寄る。
「鍵は持っていないの?」
「はい」
小学5年生くらいの姉が答える。弟はまだ1年生くらいか、泣きそうな顔になっていた。
「お母さんはいるはずですが・・・」
姉の声はより小さくなる。
「相良さん、いないの?子どもたちが帰ってきたわよ」
美和子さんは子どもたちと正反対の大音量でドアを叩く。すると、ガチャとゆっくりドアが開いた。
「すみません。具合が悪くて休んでいまして」
「あら、大丈夫?この人警察官だから心配しないでね」
僕を勝手に紹介している。
「ちょっとお邪魔しますね」
勝手に家の中に入っていく。下手をしたら不法侵入だ。
リビングには食べ終わったコンビニ弁当の容器と飲みかけのペットボトルが散乱している。テーブルの上には書類が山積みになり食事をするスペースを奪っていた。
「あらあら、片付けないと」
美和子さんは勝手に片づけを始める。子どもたちの母親にはそれを止める気力も体力も残ってはいないようだった。
「子どもたちは私たちに任せて休んでいて」
一瞬迷惑そうな顔をしたが頷いてリビングの隣にある和室に姿を消す母親だった。子どもたちは美和子さんの方を見ようとはせず何故だか僕を見つめる。
「大丈夫だからね」
僕は子どもたちを安心させるためにしゃがんで男の子の頭を撫でた。
「ちょっとあなたも動きなさいよ」
「はい、すみません」
美和子さんに叱責され思わず身体が動いていた。
少しすると二階で遊んでいた男の子が近くに来て僕の顔を凝視する。僕はハッと気が付いた。
「お腹空いている?」
「うん」
「何か作ろうか?」
子どもの目が輝くのを見逃すことはなかった。
「あら大変、お腹が空いていたのね。どうしましょう。さっきキッチンを掃除したけれどロクな食材がなかったわね」
ロクな食材がないとは失礼な言い方だが、美和子さんにしてみれば事実だった。
「あの、僕が作ります」
「何ができるかしら」
「僕に任せてください。僕は底辺生活者なのでここにある食材で料理ができます」
しなびかけのジャガイモと玉葱がありツナとコーンの缶詰もあった。僕に言わせれば十分すぎる食材だ。
僕は父を早くに亡くし母子家庭で育った。その母親も病気がちで収入が少なく頼る親戚もいなかったので裕福な生活とは程遠く、僕は少ない具材で美味しい料理を作ることを覚えた。
「あら、見かけによらないわね。イケメンだから良いとこのお坊ちゃまかと思っていたわよ」
僕は自分がイケメンだとは思ったことはない。だが、最近流行りの俳優に少し似ているとかで女子たちに騒がれたことはある。それにイケメンイコール金持ちとは限らないのにそう思っている人は案外に多いようで学生時代も近づいてきた女の子に家庭の事情を話すと大抵離れていった。まあ、そんな女性はこっちだってごめんだが、何だか振られたような感じになり、少しだけ貧乏な境遇を恨んだこともあった。
賞味期限が少しだけ過ぎたホワイトシチューのルーがあったので作ってみた。
「あら、美味しそうじゃない。ちょっと味見させて。あら、本当に美味しい。あなた天才ね」
「いやあ、ホワイトシチューのルーがありましたから」
「私だったらこれだけの材料で作ろうとは思わないわ。肉がないとか人参もとかブロッコリーだってね。あなた立派ね。私も見習わないと」
美和子さんに感心され悪い気はしなかった。
子どもたちも喜んで食べてくれた。仏頂面だったお姉ちゃんの方も僕に微笑みかけてくれた。
昼食を終えた子どもたちが二階に行き僕と美和子さんは片付けを再開した。それもひと段落すると美和子さんは子どもたちの母親に声をかけに行った。
「少しは具合良くなった?こっちでお茶でも飲まない?お腹が空いているのなら美味しいシチューもあるわよ」
少し時間を置いて襖がスーと開いた。
「すいません」
相変わらずやつれた表情だったが、美和子さんのパワーに圧倒されたのか、どこか観念したような感じになっていた。
僕がお茶を淹れて三人でテーブルを囲む。
「あら、お茶を淹れるのも上手ね。お母さんが立派なのね」
どういう根拠なのかこれも不明だが悪い気はしない。
「ほんと、美味しい。このお茶葉うちのですか?」
「そうですよ」
僕は多少古くても安くても美味しいお茶の淹れ方を母から教わっていた。
「僕の家は母子家庭で貧しく、色々と工夫をする必要に迫られていたので」
「あなたのお母さんって生きる意味を知っているのね」
「生きる意味ですか?」
「そう、生きる意味」
美和子さんの言葉は深過ぎて理解するのに時間が必要だった。天真爛漫に振る舞っている美和子さんだが笑顔の裏に何かが隠れているのかもしれない。
「生きる意味・・・」
ボソッとこの家の主婦芳恵さんが小さな声を出した。芳恵さんは考え込んでいるのかしばらくはどこか遠くを見ているようだった。
「どういうことですか?」
僕は率直に美和子さんに尋ねる。
「私はね、お金なんて無くても子どもたちが元気で明るく笑っていてくれればそれだけで十分だって気が付いたの」
「僕の母もそう言っていました」
「気付くのがもっと早ければって、今は少し後悔しているけれど」
「そうなのですか?」
「昔の私はお金が無いと幸せにはなれないと思い込んでいたから」
美和子さんは少し間を置いた。
「家を建てることに拘って、その結果夫には長時間通勤と長時間労働を強いていたの。そのせいかはわからないけれど浮気をされてね」
芳恵さんは何か言いたそうに美和子さんをじっと見ていた。
「今の私です」
芳恵さんの言葉に美和子さんが机の下でガッツポーズをしたのを僕は見逃さなかった。
「ご主人とはちゃんと話をしているの?」
「主人は浮気なんてしていないと言い張りました。でも、私は信じられなくて」
「誰にも相談はしなかったのかしら」
「はい、親にも言っていません」
「あなたのプライドが原因ね」
芳恵さんの顔がピクリと動いた。僕は少し冷や冷やしていた。
「私は・・・」
「あなたはブランド品が好きで見栄を張ることしか考えていないでしょう」
「美和子さんちょっと言い過ぎでは・・・」
「いいのよ。少しは言ってあげないと、子どもたちのためにならないでしょう」
「子どもたち・・・」
「あなたは自分のことしか考えていないのよ。だからご主人にも浮気をされてしまう」
僕はただただオロオロするばかりだった。芳恵さんは俯いたまま何も語らない。
「少し自分のことを反省しなさい。子どもたちの世話もしないで自分は被害者面して引き籠って、そんなことでは解決するものもしないじゃない」
「・・・」
僕は美和子さんにこの場を任せようと腹を括った。
「このままの状態が続いたら、きっとご主人は子どもたちを連れて出て行ってしまうわよ」
「それは・・・」
「そうならないためにも、あなたがしっかりしないと」
「でも・・・」
「子どもたちを道連れにして死ぬことを考える前にすることがあるでしょう」
「どうしてそれを・・・」
「えっ、死ぬってそんな・・・」
僕は再び狼狽えることしかできないでいた。
「昨夜は私が警察を呼んでしまって外は騒々しかったし、子どもたちの寝顔を見て躊躇ったのかもしれないけれど、今日は実行するつもりだった」
「はい・・・」
「え~、嘘」
「ご主人は出張中なの?」
「はい、明日の夜帰ってきます」
「じゃあ、今夜は私がここに泊まるから一緒に夕飯を作りましょう。陽ちゃんは何時までここにいられるの?」
「僕は飲み会の約束が・・・」
僕は真実を言った。
「だったら帰っていいわよ」
ホッとした半面少し心残りではあったがその日は美和子さんにお任せして大人しく帰ることにした。
数日後、僕が交番勤務をしていると美和子さんが訪ねてきた。芳恵さんからの招待を受けたと言い、僕が非番の日に一緒に芳恵さんの家に行くことになった。
芳恵さん宅の庭は見違えたように生気を宿していた。きっとあれから美和子さんが芳恵さんを救ったのだろう。玄関から出てきた芳恵さんは化粧もきちんとしていて髪もセットされ別人のように綺麗になっていた。
ご主人と子どもたちは外出しているとかで留守だった。リビングは少し模様替えをしたのかあの日と印象が違っていた。僕の気のせいかもしれないのだが。
芳恵さんと美和子さんと僕の三人で美和子さんが買ってきたケーキを食べる。一緒に出された紅茶はフルーツの香りがした。
「本当にあの時はありがとうございました」
「僕は何も・・・」
「あなたが気にしてくれたから私も一緒にここに来られたのよ」
「本当に僕は何もできなくて」
「いいえ、あの時お二人がお見えにならなかったらどうなっていたか」
「元気になられて良かったです」
「美和子さんの前でかなりの醜態をさらしてしまって」
「僕が帰った後にですか?」
「そう、美和子さんに当たり散らして泣き叫んでしまって」
「お酒を飲んでね」
「二人でお酒を飲まれた」
「ええ、子どもたちを寝かせてから二人で酔い潰れるまで飲んだわね」
「あんなに飲んだのは初めてでした」
「そうお、私なんて週一は飲んでいるわよ」
僕は「そうでしょうね」という言葉を飲み込んだ。
「でも、お陰様で吹っ切れたというか、開き直ったというか、自分を改める決意ができました」
「自分を改める、ですか?」
「そう、薄々は気が付いていました。私の見栄っ張りなところが夫をそして子ども達だって追い詰めているって」
「隣の芝生は青いって言うけれども、幸せって誰かと比べるものではないのよね」
「ええ、童話の『青い鳥』ではないですが身近な幸せに気付こうともしていませんでした」
「どっちも青ですね」
「何それ」
僕の発言は笑いを取れるどころか二人を白けさせてしまった。
「すみません」
僕の存在価値が益々なくなる。
「私は自分たちの家を建てることで理想的な家族を演出しようとしていました。新しい素敵な家さえあれば幸せになれるのだと勘違いをしてしまって」
「ご主人のことや子ども達の本当の姿を見失ってしまったのね。私もよく母から「子どもをちゃんと見ていなさい」って言われていたのだけれど、そのことの本当の意味が分かったのは子どもが反抗をして家出した時だったかしらね。子どもの言い分を聞こうともしていなかったことにそこでやっと気付いてね。でも、もっと早くに気付いていたら・・・」
「私も夫が辛い思いをしているとか子どもたちも寂しいのだということに気付いてあげられなかった」
「今それに気が付けたのだから立派なものよ。ご主人とも話し合いができたのでしょう?」
「はい、浮気というのも私の勘違いだったようで、まあ、その言葉を信じるしかないのですが、信じてみようと思います。そして、夫と子ども達をちゃんと愛してあげようと」
「愛してあげるって素晴らしいことよね。根拠なんて分からないけれど、愛されるより愛することの方が人を幸せにするもの」
「そうですね。僕の母もよく言っていました」
芳恵さんの家を出るとキレイな夕日が僕の目に飛び込んできた。
「こんなにキレイな夕日がこの街でも見られるのですね」
僕は思わず言っていた。
「そうよね。この街にはこんなキレイな夕日は似合わない」
「えっ、そういう意味ではなくて」
「わかっているわよ。まだまだこれからよ」
「えっ、何が?」
「陽ちゃんが解決しないといけない問題は」
「僕が解決?」
「そう、今回のことで私も自分に少し自信が持てたから、一緒に頑張っていこうね」
「だから何を?」
美和子さんは不敵な笑顔を見せるも僕の質問には答えてはくれなかった。
「あっ、そう言えば、美和子さんも苦労なさっていたのですね。ご主人の浮気とか」
「あれ全部嘘よ。私の主人にそんな甲斐性はないから。私はただのミステリー好きのおばさんというだけよ」
やっぱりあのガッツポーズは自分の推理が当たったことに対するものだったのかと、僕は腑に落ちた。
「あの時の夫婦喧嘩も・・・」
僕は恐る恐る気になっていた疑問を口にしてみた。
「ああ、あれね。お酒を飲むと茶碗やらコップやらを無性に割りたくなることがあって、あの日もベランダに叩きつけていたのよね。数年に一度のことだからもう大丈夫よ」
ただのお節介おばさんのように振る舞っているが、美和子さんの奥にある隠された影を僕は感じとっていた。
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