@murasaki_budo

鏡よ鏡。貴方はどうしてその目で何もかもを見てきたのに、何も語ろうとはしないのでしょう。

鏡よ鏡。この部屋で一体、過去に何が起こってきたのでしょう。

この部屋で私の親友は育ち、そしてこの部屋で私の親友は自ら息の根を絶ちました。

真実を教えてください鏡さん。

「ええ。では、その一部をあなたにお見せします。今からあなたは鏡となるのです。あなたは真実を映し出す鏡となって、最後の夜を静かに眺めるのです。よろしいですか。では、私に触れてください。」

私は彼女の部屋の隅に立てかけられた姿見にゆっくりと手を触れました。

途端、鏡の中から何かが伸びてきて私を捕らえたかと思うと、それはゆっくりゆっくりと私をその中へと引きずり込んで行ったのです。

私の意識は氷が溶けていくようにじわじわと侵食され、私は意識を失いました。


次に私の意識は、薄暗い彼女の部屋の片隅で覚醒しました。

外では激しい雨が降りしきっています。

時折、外で轟く雷鳴に私は叫び出しそうになります。

耳を塞ごうとして、しかしそれが私にはできないことに気が付きました。

目を閉じようとしても閉じることはできません。

壁の方に向き直って、激しい雷光から目を背けることもできません。

私は思い出しました。

私は自らを鏡の中に溶け込ませ、自らが鏡となったことを。

私はただ、目をそらすことも、耳を塞ぐこともできぬまま、彼女の部屋の隅に立ち尽くし、そこで起きる何もかもを意識に焼き付けなくてはならないのです。


次に、空が鋭い叫び声を上げて、部屋中が一瞬青白く光った時、私はベッドの上に横たわる奇妙な塊を見つけました。

それは漠然とした存在ではありませんでした。

なぜならそれは、人の形をしているのですから。しかしそれには、目や鼻や口がありません。

灰色の点や黒色の点がたくさん集まって、人のような形を作っています。

汚く言うならば、小さなハエがたくさんに寄り集まって人の形を作っているようにも見えます。

私はその、人の形をしたものの方へ意識を集中させました。それは、ベッドに力なく横たわりながらスマホの画面を開いています。

彼女の画面によく意識を集中させてみると、そこには私がよく知るチャットアプリが開かれていることが分かりました。

鏡となった私は、私が意識を集中させさえすれば、鏡がどんな細かな物もそのままに映し出すように、それをハッキリと見ることができました。

私はしばらく、その塊は一体なんなのだろうかと考えていました。

その塊は、塊と呼べるほど固形的なものではありません。多少の流動性を持っていて、常に一定の形状を保っているわけではなく、時に一部が焼け爛れてしまったかのようにどろりと垂れたかと思うと、次にはまた元通りになります。また、さらに奇妙なことには、それはスマホの画面にその顔の半分をめり込ませてしまっています。

異様な光景でした。

その塊について様々な考えを巡らせていたところ、唐突に部屋のドアが音を立てて開かれ、そこからなんと彼女が姿を現したのでした。

私の胸は色々な感情でいっぱいになりました。

その時の私には胸などありはしませんが、確かに胸がいっぱいになる感覚を覚えました。

彼女が生きてそこにいる!

彼女に飛び付き、抱きしめたい衝動に駆られました。けれども、私にはそれができません。

私はただ、彼女自身の姿を映し出しながら静かに部屋の片隅に佇むことしかできないのです。

彼女は部屋の明かりもつけずに、その塊が横たわるベッドの隅に腰を下ろしました。

すると、人の形をした塊の顔の部分の、本来ならば口にあたるところが少しパクパクと開かれました。

恐らくは彼女に話しかけているのでしょうが、そこから漏れる音は、私が理解できる類の音ではありませんでした。

ただ、キェキェと不気味な音を立てているだけです。

私はとても気味が悪く感じましたが、彼女にそんな様子は全く見られません。それどころか、彼女はその不可解な音をよく理解しているようです。

塊が一通り奇怪な音を発し終えると、次は彼女が口を開きました。

「うん。今日もとても楽しかったよ。みんな優しくてとてもいい子なのに。あなたは…」

「キェキェ…」

「ねえ、どうしてあなたはそうなんだろう?私だって自分が何者なのか分からないのに。」

「…」


それからは、塊と彼女は言葉を交わすことはありませんでした。

彼女は部屋の明かりをつけないまま勉強机の前に座り、勉強机に備え付けられたライトだけをつけて、教科書とノートを開き、勉強を始めました。

彼女は鏡に背中を向けているため、その表情をうかがうことはできませんが、その背中が彼女の真剣さを物語っていました。

一方、塊の方はというと、依然として画面の中に顔を突っ込んだままです。

何をしているのかと思い画面に意識を集中させてみると、やはり先ほどのチャットアプリが開かれたままです。そして、その画面に映し出されたものを見て私はとても驚きました。そこに映し出されていたのは、彼女と私の現在進行形の会話でした。

私が愛してやまない彼女との会話でした。

どういうことなのか私にはさっぱり分かりません。

私の心はただ、鏡のように見たままの出来事をそのままの形で映し出すことしかできませんでした。

私が愛した彼女の姿は、私が写真で見た彼女の姿は、今勉強机に向かい必死にペンを走らせている凛々しい彼女のものです。

無様にベッドに横たわり、画面に顔を突っ込ませている奇怪な塊は、私が愛した彼女の姿ではありません。

しかし今、塊の持つスマホの画面上に映る私が、溢れんばかりの愛情でもって話している相手は紛れもなく、その奇怪な塊なのです。

なんとも不可解なことです。

私は考えました。どちらが私が愛した彼女なのだろうかと。

思えば、彼女は真剣に勉強机に向き合うような人間ではありませんでした。そう考えてみると、今勉強机の前に凛として座っているその少女は、私の中における彼女のイメージとは少しズレたところがあります。そして、今画面内の私が話している相手が、あの哀れな姿をした塊であるという事実。

私は、その奇怪な塊こそが私の愛した彼女であるという1つの結論に達しました。

しかしこれは一体どういうことなのでしょうか?

私があれこれと考えているうちに、その少女は勉強を終え、机の明かりを消し、ベッドに潜り込みました。模範的な生活のように思えます。私の知る彼女の生活ではありません。

彼女はまだ端末にのめり込んでいます。

そういう彼女の姿を眺めていると、彼女がひどく孤独であるように思えてきました。

真っ暗な部屋の中で、画面に顔をめり込ませる程にチャットに夢中になる塊。

彼女は深い孤独を負っているように見えます。

私が彼女に対して持っていたイメージとは違いました。

私はその奇怪な塊のような彼女を温めたくなりました。

後悔の念も同時に私の底から噴き上がってきました。

私はカレンダーの日付を見てハッとしました。

それは、私と彼女が会話をした最後の日でした。

外ではまだ深く重い雨が地表に衝突しては弾ける音がします。

私は今画面上で進行している会話に意識を集中させました。

「ゆんちゃんまだ寝ないの?」

ゆんちゃんとは私のことです。

「うん。ねねちゃんはまだ寝ないよね。」

ねねちゃんは彼女です。

「寝ないよ。ゆんちゃん明日学校なんでしょ?寝たほうがいいよ。」

「まあそろそろ寝るよ。ねねちゃん学校で眠たくならないの?」

「えっと、うん。」

「そっかぁ。」

「ねえ、私はどうしてこんなのなんだろう?」

「こんなのって?」

「うーん。ねえ、ゆんちゃんには私はどう映ってるの?」

「話してて楽しい、優しい女の子!頼りになるし、大好き。」

「ありがとう。でも、本当は私…」

「知ってるよー。とても良い人なんだよね。頼りになるしね。」

「ありがとう。でも、ごめんね。私、嘘ついてるのかも。」

「嘘って?」

「いやさ、私本当はとても弱い。自分というものがないんだ。自分が分からない。自分が何者なのか分からない。」

「ねねちゃん急にどうしちゃったの?弱っちゃったの?抱きしめよっか?」

「ねえゆんちゃん、私は本気で悩んでる。私は私自身を遠い昔に置いてきちゃったんだ。今の私は一体何者なのか分からない。」

「ねねちゃんはねねちゃんだよ。ねねちゃんはねねちゃんらしくあればいいんだよ。」

「私らしいなんてものがない。私は私が何か分からない。ねえ、何も分からない。」

「ねえ、ねねちゃんらしくないよ?私の頼りになるお姉ちゃん!」

「だから、違うんだって。ゆんちゃんはきっと私の惨めな姿を知らないんだ。」

「ねねちゃんは誰もが二度見する美人さんだよー。え、もっと写真ちょうだい?」

「ごめんね。今日はもう寝るね。」

「え?寝ちゃうの?珍しく早いね。」

「うん。なんだかもう、休みたくて、楽になりたくて。」

「そっか。じゃあ、おやすみ。また明日ね。ねねちゃん好き!」

「うん。ありがとう、おやすみ。」


スマホの電源を落とした彼女の正確な表情を読み取ることはできません。けれども、何かとても寂しげな雰囲気だけは彼女から伝わります。

私は彼女の悩みに心から寄り添う事ができませんでした。私は彼女という人間について深刻な勘違いをしていたのです。彼女は私の頼りになるお姉さんで、大好きなお友達で、そしてこれはあまり良くないけども、依存相手でした。

けれども実際は、彼女は深い孤独を抱えていたのです。

今このベッドの上に横たわる対照的な2つの体を見ていると、その孤独は確かなものだったと確信することができます。

どちらが本物の彼女で、どちらが偽物なのか、あるいはどちらも本物なのか、それは私には分かりません。

ただ、そこには私の愛した彼女と、彼女の姿をした少女がいます。

彼女はとても震えているように見えます。

月も星も見えない黒い空から降り続く雨に包まれた部屋で、一人孤独に震えている彼女の姿が見えます。

私はどうして彼女の孤独にずっと気づくことができずにいたのでしょうか。あれほど彼女と時を過ごし、彼女を知っていたつもりが、実のところは彼女に、私の信ずる彼女を押し付けていただけなのでした。

彼女を抱きしめたいのです。もう大丈夫だと、そう言いたいのです。けれども鏡の私は動くことができません。だから、どうか私のこの鏡となった姿を見て欲しいのです。そこに映る自らを見て欲しいのです。それがどれだけ奇怪な見た目をしていようと、それが孤独の岩に押し潰されそうな儚い不気味な塊であっても、紛れもなく私が愛した彼女自身なのです。

「お願い、こっちを見て。私を見て、自分を見て。そして、愛されている自分を知って。そこにあなたがいることを知って…でも、私は本当に彼女自身を愛しただろうか?このいびつな彼女を愛しただろうか?私は、私の中で構築された架空の彼女を愛したのではなかろうか?いや、私は彼女を愛した。」

彼女はベッドからゆっくりと起き上がり、私を、鏡を見つめました。

そこに彼女はどんな自分自身を見たのでしょうか。

鏡は、なぜ全てを知りながら手を差し伸べなかったのでしょうか。私には気づけなかった真実をその目で見てきたのに。何よりも正確にその真実を映し出してきたのに、鏡は彼女に救いの手を差し伸べることはなかったのです。

そして今、彼女を愛した私でさえ、鏡となっては彼女に何もしてあげることはできません。私はこの、彼女と過ごした最後の夜を自身の目で見ながらも、何もできないという無力感に苛まれています。そしてまた、私は何1つとして彼女についての真実を見つめていなかったことに気付かされました。

私は鏡と違って、彼女を救うことのできる手や足や口を持ちながらも、何もしてやることができなかったのです。

後悔が蔓が私の心をひどく締め付けます。

私の意識は、純粋な水に垂らしたコーヒーの一滴が、形を失って溶け込んでいくように消えていきました。

彼女の部屋での最後の私の記憶にあるものは、目、鼻、口のない、黒や灰色の点が集まってできた塊が、鏡の前で弱々しく立ち尽くす姿でした。

彼女を構成する点は絶え間なく不規則に動き回っていました。テレビの画面の砂嵐のように。

凛々しい少女はベッドの上で静かな寝息を立てていました。

そして私は、古い埃の立つ、朱い夕方の光が差し込む部屋の中で目を覚ましたのでした。

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