第1話 はじめての家出先
「……?」
家出をしたところまでは覚えている。前日に家出宣言をしたせいで厳重になってしまった警備をかいくぐり、城で飼育されていた馬の一頭に跨って塀の外へと脱出した。そして、森へ逃げて……馬ごと崖下に転落した、はずだ。
「うっ」
その時の恐ろしさまでもが胸に
もしかして自分は死んでしまったのだろうか? ということは、ここは天国?
「きっとそうよ。だって悪いことはしていないもの」
家出は少しばかり大それたことをしてしまった気もするけれど、国境を侵したわけでもあるまいし、神様もお許しになるだろう。
「あー、天国かぁ。まだやりたいコトいっぱいあったのに……。侍女達が話してた『クラブ』とかってのにも行ってみたかったなぁ」
そう呟くと、ふっと目を閉じる。城勤めで目の肥えている侍女達があれほど素晴らしいと褒めそやしていたのだ。興味津々で首を突っ込んでも詳しくは教えて貰えなかったが、きっと噂に聞く極楽浄土のような場所に違いない。
「なんだよ、その不純な寝言」
「うーわー。今度は天使様の声が聞こえるぅ……」
「誰が天使様だ。お前な、起きたなら起きたって言えよ。ビックリするって、ホントに」
はぁ、と声の主が溜め息を吐く。
それにしてもやけに近くで聞こえるものだ。まるですぐ
すると、白かったはずのそこには誰かの顔があり、こちらをジト目で覗き込んでいた。
「セクティア?」
通称「天使様」がきょとんした顔を近づけてくる。その面には見覚えがあった。
「あっ、貴方っ! す……」
「わぁっ!」
彼は血相を変えて、セクティアが反射的に名前を呼ぼうとするのを阻止すべく口を押さえ込んだ。それから、あくまで小声で言い聞かせる。
「声のボリューム下げろっ! お前がここに居るってバレたら大事になるだろうが! 何のためにベッドを空け渡してやってると思ってんだアホッ!!」
記憶にあるよりも声は低くなっているが、話し方は昔のままでなんとも懐かしい。
「もご、もごもご!」
「あ、あぁ悪い。静かに出来るか?」
こくこくと頷くと、彼はまだ不審げな表情のまま、ゆっくりと大きな手を口からどけた。思わずセクティアは強く息を吸い込みかけて、それをゆっくりと吐き出してから言った。
「……スヴェインだよ、ね? やっぱり」
彼こそ、かつて共に乗馬を習った幼馴染みの男の子だった。随分と会わないうちに背丈はすっかり青年へと成長しているようだけれど、顔には昔の面影がくっきりと残っている。
相手も溜め息混じりに「ああ」と肯定した。
「フリクティー王家のセクティア王女だろ?」
「うん。……ていうかさぁ」
「な、何?」
「どうして貴方がここに居るの?」
スヴェインは、セクティアの住むフリクティー王国の隣に位置する、ユニラテラ王国の第二王子だったはずである。
その彼がどうしてここに居るのだろう?
きょとんとした瞳で尋ねると、彼は肩をがっくりと落とし、呆れ顔で言った。
「それはこっちのセリフだ。なんでセクティアがユニラテラに居るんだよ」
「え? 何言って……」
セクティアは言葉を呑みこみ、弾かれたようにベッドを下りてベランダへと向かった。手摺りに手をかけて外を見ると、そこにはいつも見えていた王国の城下町とは全く違う景色が広がっていた。
いや、町には違いない。が、真っ直ぐに伸びた大通りに建つ建物の形も、そこを行き交う人々の衣服にも異質さを感じる。遠目でも分かるのだから、近くに行けばもっと強く実感するだろう。
「フリクティーじゃ……ない!?」
呆然と立ち尽くすセクティアに、スヴインが近付いてくる。
久しぶりに見る彼はやはりセクティアより頭一つ分背が高く、その身をぱりっとした上等な服に包んでいる。自室だからか武器の携帯はしていないようだ。
「オイ、あまり乗り出すな。見張りが居るからな。それより、あそこ……見えるか?」
彼は向かって右に見える赤茶けた塔の方を指差した。周りに木々が茂っているところを見ると、林か森だろうか。
「見えるけど、あそこがどうかした?」
「今日はあの辺りに側近と狩りに行ってたんだ。塔の向こうの、ちょうど森に差し掛かる辺りに丘があって、そこを通りがかったところでセクティアが俺の上に降ってきたんだ」
「え? 降ってきた?!」
彼はその時のことを思い出してか、自分の首の後ろをさすりながら顔をしかめる。
「あぁ、降ってきたんだよ、俺の頭めがけてっ! グキッとか首が不思議な音したんだぞ?! 折れたかと思ったんだからな!」
「はぁ、なんかスミマセン……」
「その後も凄く困ったけどな。セクティア、通行手形持ってないだろ」
「あ゛」
ここがスヴェインの言うとおり隣国のユニラテラなら、セクティアは国境越えをしたことになる。
通常であれば国境を越えるには関所を通るものであり、その際、必要になるのが「通行手形」と呼ばれる書類だ。手形は越境したい者が国の施設に出向いて申請手続きをすれば発行して貰える。
フリクティーとユニラテラの二国間は、長きに渡って友好関係を築けているため発行審査も比較的簡単だが、関所を通らずに山から越境などした者は、もちろん罪に問われるのだ。
スヴェインはセクティアを再び部屋の中に連れ戻し、「解っているのか?」と目を細めた。
「一国の王女が隣国に不法入国なんて、冗談じゃ済まされない。だからまだフリクティーには連絡していない。お前の話を聞いて、これから我が国としてはどうするべきか考えないとな……おい、セクティア?」
下を向いて急に黙りこくるセクティアに、スヴェインも「言い過ぎたか?」と心配そうにその顔を覗いた。
だが、多少きつい口調になっても無理からぬことだ。他国への不法侵入は決して軽い罪ではない。それが一国の王女ともなれば、両国からの責任追及は免れないだろう。
「……た……」
突然、セクティアが小さな声で何かをボソッと呟いた。
「?」
「ぃやったぁぁ!! スヴェイン、私っ『家出』成功したのねっ!? きゃー、やった! 嬉しーいっ」
彼女はイキナリ叫びながらピョンピョンと跳ね始めた。そこには「反省」の「は」の字も窺うことが出来ないどころか、スヴェインにとっては耳を疑う発言が含まれていた。
「……セクティア? もう一回言ってみろ。お前、何シテ来たって……?」
彼が顔を引き攣らせながら問いかけると、彼女は満面の笑みで答えた。
「え? だから『い・え・で』よ♪」
いえで……いえで……家出。
ぶちっ。頭の中で何かが切れる音が響く。
「……れ」
薄い唇の間から、吐息に混じって消えてしまいそうな声が漏れた。
「え?」
セクティアは耳に掠ったそれを聞き留めて、何か言ったかと問いかけようとし、唇を止めた。スヴェインの膨れ上がらんばかりの怒気が、彼女の好奇心を上回ったためである。
「帰れっ。今すぐ帰れ、この温室育ちがー!!」
「なっ」
人差し指が迷い無く入口を指した。顔は真っ赤で、喚き立てる口からは
「……何よ」
それでも、セクティアも生来の負けず嫌いが仇をなし、黙ってはいられない。
「温室育ちならそっちも同じじゃない! このお坊ちゃん!」
「うるさいっ! 家出だって? 一国の王女ともあろう者が……自分が何をしたかも分かってないなら、『温室育ち』じゃ品が良すぎるくらいだっ」
青筋が浮かぶ額を前髪で隠すこともせず、スヴェインは彼女の細い腕を掴んで詰め寄った。
ここまでキレた彼も珍しい。昔はやんちゃながらも心優しい少年だった。
「な、何をそこまで怒ってるのよ。迷惑なら出ていくから。助けてくれたお礼もいつか必ずするから、放してってば、痛い」
「そうか、そうか。痛かったか」
ごす。
強く掴まれた片腕が解放されたかと思った刹那、今度は容赦ない拳骨が王女の脳天を直撃した。
「~~~~!?」
脳裏に星が閃き、世界が明滅する。両手で頭を押さえて悶絶する羽目に陥った彼女に、更に頭上からは怒声が降ってきた。
「このアホっ! 行方不明の姫が隣国の王族の私室で……なんてことが知られたら、国際問題になるんだぞ。下手すりゃ戦争だ!」
「え、せんそう……? ええっ、戦争~~!?」
その瞬間、痛みも星も吹き飛んでしまった。家出成功を呑気に喜んでいた能天気娘が、やっと事の重大さを認識した瞬間でもあった。
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