2013年【藤澤】 22 藤澤、戦場に立つ
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交通事故は、人生を激変させる力がある。
当事者はもとより、一見無関係なことにも影響を及ぼすこともしばしばある。
それこそ、川島疾風がヤクザの息子を車ではねなければ、岩田屋町は平和だったのかもしれない。
自動車と歩行者の交通事故が起きたとき、責められるのはいつだって自動車のドライバーだ。
けれども、弱者である歩行者が死にたくなければ、防げる事故も多い。
屋敷を破壊するほどに、無茶苦茶な運転をするMR2に対して、避ける素振りを一切みせない男がいる。アゴ髭ともみあげが一体化した毛を触りながら、迫りくるMR2を観察している。
仕方がないので、藤澤はハンドルを切ってあげる。
殺さないであげることにしたのに、同じタイミングで男が同じ方向に動いた。
「くそ、バカがよ!」
ぶつかったのに、大惨事は起きなかった。
男は無傷のまま、ボンネットの上にしがみつく。腰に巻いた上着が、まるでマントのように風でひるがえる。脇に挿している斧がちらりと見えて、藤澤の緊張が高まる。
ここまで大きい身体の人間を見たのは初めてだ。二メートルは、ゆうにこえている。大きければ、自ずと力も強くなる。
予想はしていたが、車体を前に傾かせられて、後輪が浮くほどの力があるとは思ってもみなかった。
「いやいやいや、嘘だろ。やめろって」
リアドライブのMR2では、後輪が接地していなければ、走れない。スピードはみるみる落ちていき、やがて完全に停止する。
フロントガラス越しに斧男と目があう。なにかを見定めたかのような態度のまま、そいつはボンネットから降りていく。
『藤澤、そいつはベルタという最悪な相手だ。戦わずにすむのならば、そのほうがいい。いいか。無意識に重ねるな。腹に子供がいても、あれはお前の嫁ではない。最小限の犠牲に済むならばと、我が身を差し出すような女だ。別物だろ?』
「むしろ、沖田組長に言われなければ、近くにクリスさんがいることに俺は気づきもしなかったですよ」
停車した部屋のソファーの上に、クリスが横たわっている。
ボディガードのメイドが一人もいない。クリスのそばにいるのは、日本刀を腰に差した達人風の老人だけ。
老人はクリスに狙いを定めて刀を構える。自分が狩る側と疑っていないようで、ベルタの斧に狙われていると気づくことなく、老人の人生が終わる。
刀を握ったままの両腕が宙を舞う。斧は肉を断ち切っても勢いが衰えることなく、そのまま老人の腹を引き裂く。
「なんで? あのベルタって人は、クリスさんを守ってくれたんですか? ひょっとして味方なんですか?」
『まさか。いま襲ってきている連中の大半は、クリスと総江と疵ノ牙の三つが目標だ。さっきも話したと思うが、敵同士は目標の所有権を常に奪い合っているんだよ。言うなれば、クリスのそばにいて生き残っているベルタは、クリス争奪戦の暫定一位といったところだな』
沖田の話を聞きながら、MR2を半クラ操作で動かして、老人の斬り落とされた腕の近くへ。これで車を降りると同時に、日本刀を拾える。
『何度でも言うが、無茶をするなよ。藤澤では勝てない相手だ。MR2の中は安全なんだ。これだけ無茶な走りをしてきて、それでも問題なく走れているのが、なによりの証拠だろ?』
「でも、勝てる勝てないじゃなくて、どうにかしないと」
しかしながら、使用する武器に不安がよぎる。
練習して手になじませてきたドスですら、実戦で通用するかどうか怪しいというのに。よりにもよって、日本刀を使うことになるなんて。落ち着け。こういうときこそ、冷静になれ。
浅倉弾丸から教わったジャンケン理論を思い出す――ベルタが握っているのは、血が滴り落ちている斧だ。刃物と大別すれば、ジャンケンでいうところのチョキ。
藤澤もチョキなら出せる。となれば、理論上はアイコを続けるのは可能だ。アイコならば勝てなくとも、負けない。
他に弾丸はなにを言っていた。些細なことでもいいのだ。記憶を蘇らせろ。
『偶然に耳に届いて、お前の力になりますように』
そんな歌を弾丸は口ずさんでいた。
偶然に聞こえてきた言葉で、藤澤の力になりそうなものなんてあるのか?
人間の記憶は海のようなものだ。現実という砂浜に立っていると、過去となったものが次々と海の中に溶け込んでいく。
寄せては返す波打ち際で、大事なものが海の藻屑とならぬように、人間は誰しも大事なものは瓶の中に詰めているのだ。
クリスたちと楽しく作ったメッセージボトルが、イメージとして足元に漂流してくる。瓶の蓋を開けると、心の中に声が聞こえる。
『大丈夫。なんかよ、いけそうな気がするんだ』
奇しくも弾丸の息子が口にした言葉だ。親子で力を貸してくれるとは、浅倉の血とは末恐ろしい。
根拠のない自信が、藤澤の中で湧き上がる。
車から降りて、シワシワの手から日本刀を奪い取る。
弾丸に教わったドスの構えを忠実に守る。刃の長さがいつもと違いすぎる。これでは、斬る刺すのどちらも中途半端なパフォーマンスしか発揮できそうにない。
心配は現実のせいで意味を持たなくなる。
ベルタの斧の一撃で、日本刀はあっさり折れる。藤澤は震える腕を鼓舞し、再び基本に忠実の構えをとる。刀が折れたおかげで、しっくりときた。
「これで、理にかなった構えになったな。さて、ずいぶんと車で暴れまくっていたのに、刃物のほうが得意なのかを確かめさせてもらおうか」
「その余裕を後悔させてやるよ。まずはクリスさんから離れろ」
「震えた声で命令せずに、ワシから奪い取ればいいだろう。そうすれば生死の確認はおろか、好きなことができるぞ」
「うっせぇ。言われなくても、やってやるよ」
クリスにばかり意識を向けるなと言わんとして、ベルタの巨体が藤澤の視界を遮る。
「今度は身体も震えているではないか。もしかして、今回が初陣か? そうか。ならば、戦争の楽しみ方を教えてやらんとな」
「楽しみ方? 頭が狂ってんのかよ」
「誰かの指示に従って、戦争に参加するほうが、ワシには狂っているように思えるがな。自分の好きなように闘い、好きなときに死ぬ。それが男ってもんじゃないのか?」
「何時代の人間だよ、あんたは?」
「ワシをタイムトラベラーか、なにかと勘違いしているのか? そんな大層なものではない。ただの男に過ぎん」
ただの男という点に、藤澤は引っかかりを覚えた。
あごにまで伝った汗を藤澤は手の甲で拭う。ヒゲのジョリッとした感触はない。ベルタの成長したヒゲを見るに、奴の男性ホルモンが一般的な男よりも多いのは明らかだ。
「そして、お前にも男として生きる覚悟があるのならば、戦争は最高の場所となるぞ」
そう遠くないどこかで、発砲音が響いた。続けて、断末魔の叫びも聞こえる。幻聴ではなく、そりゃそうだよなと納得してしまう。沖田の棲む屋敷が、いまどんな場所になっているのかは知っている。
「人があっさり死ぬ場所が、最高の場所だと?」
「戦って死ねるなら本望だろう。どんなところでも人は死んでいる。交通事故や病気だけでなく、テレビをつければ、殺人事件がニュースで報じられているだろ」
「お前の殺人と、ナツキの殺人を一緒にしてんじゃねぇよ!」
この場で、あっさり殺されることになっても、聞き逃すことは出来なかった。
藤澤の発言に反応するように、ベルタが斧を構える。
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